平岡定太郎
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平岡 定太郎(ひらおか ていたろう、1863年6月4日 - 1942年8月26日)は明治から昭和時代にかけての内務官僚。疑獄事件により失脚した。作家三島由紀夫の祖父。
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[編集] 略歴
- 1863年6月:現在の兵庫県加古川市志方町上富木に農業を営む太吉・つるの次男として生まれる。
- 神戸の漢学塾・乾行義塾、御影師範学校(現・神戸大学)、二松学舎、東京専門学校(現・早稲田大学)、共立学校、東京大学予備門(現・東京大学教養学部)を経て
- 1892年7月:帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業 7月:内務省試補・庶務局
- 1893年11月:徳島県参事官
- 1895年5月:栃木県警部長
- 1896年12月:衆議院書記官
- 1897年7月:衆議院書記官兼内務省参事官
- 1898年4月:内務省参事官兼内務事務官 12月:広島県書記官
- 1900年1月:宮城県書記官
- 1904年11月:大阪府内務部長
- 1905年4月:大阪府第一部長
- 1906年7月:福島県知事
- 1908年6月:樺太庁長官
- 1915年3月:横領罪で起訴
- 1916年5月:無罪判決
- 1920年10月:東京市道路局長
[編集] 人物像
- 帝大時代は成績優秀であり学者として嘱望されていた。夏目漱石と同期で「それから」に出てくる不倫相手の旦那、「門」の安井のモデルであるとされている。
- 「威張らぬ人、役人臭からぬ人、調子の良き人」と評される
- 樺太庁長官に就任した年(1908年)墓参りのため帰郷した際に多数のお供を公費で同行させ、道路は改修させるわ、接待は強要するわで地元民はあきれ返ったという。
- 息子の梓は定太郎について「父はまったく大変な豪傑で、酒よし女よし、一世紀ぐらい時代ずれのした男でしたから、家庭経営にはおよそ不向きでありました」と語っている。妻夏子に性病をうつして長男の梓しか産めない体にしてしまったという。
- 樺太庁長官時代に、王子製紙の大泊への誘致に積極的に関わり、樺太の製紙・林業の発展に寄与した。また、漁業改革にも着手し、樺太拓殖の父として豊原に銅像が建てられた。
[編集] 阿片事件
1919年(大正8年)12月31日、阿片局主事の小畠庄二郎が阿片の入ったトランクを奉天へ持ち込もうとし、同トランクの相鍵を、定太郎が受け取った所を捕らえられた事件。 また同事件により、拓殖局長官古賀廉造と関東庁民政局長中野有光による、政府官吏主導の阿片密輸入事件ではないかとセンセーショナルに報じられ原敬内閣に深刻な影響を与えた。1921年には無罪判決を得ているが、2度の事件で、表舞台から姿を消すこととなった。
[編集] 著書
- 国際私法(共著)
- 国際公法
- 時効法
[編集] 家族 親族
[編集] 系譜
- 平岡氏 五代利兵衛のとき農業のかたわら商売を始める。塩をまぶした魚介類などを売り歩いた。菩提寺である曹洞宗・真福寺の過去帳には〈しおや〉と書かれている代もあるという。もともと一家は現在の西神吉町宮前のあばらやのような粗末な家に住む貧農だったが太吉が領主から禁じられていた鶴(または雉子)を射ったため〈所払い〉を命じられ上富木に移った。太吉は金貸し業で成功し平岡家に莫大な利益をもたらしたという。
孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━利兵衛━利兵衛━太左衛門━太吉┳萬次郎━萬壽彦 ┃ ┣定太郎━梓┳公威━威一郎 ┃ ┗千之 ┗久太郎━義一
[編集] 外部リンク
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