弓術
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この項における弓術(きゅうじゅつ)とは、弓の中でも長弓と分類される和弓を以て矢を射る日本古来の武術のことを指す。独自の発達をとげた、アーチェリーとは異なる技法である。
『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル)が紹介した、阿波研造範士が開いた大射道教に代表される、精神性を特に重んじる近代流派もある。
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[編集] 特徴
矢を(身体から見て)弓の外側に番えることは、日本弓術の1つの特徴と言える。これは、モンゴル・中国・朝鮮などの射法に共通した、右手で弦を保持する方法(※取り懸けという)を用いる場合に多く見られる。ただ、モンゴル国の祭典であるナーダムにおける弓射の様子を観察すると、矢を(身体から見て)弓の内側に番える射法も確認できる。また、日本の騎射においては、馬に乗りながら身体(進行方向)の左側で弓を使用するため(流鏑馬の場合)、矢が風圧で弓から外れないようにしたとの説もある。しかし、笠懸や犬追物などでは身体(進行方向)の右方向に矢を放つ場合もあり一様には当てはまらない。
(※)日本、モンゴル、中国、朝鮮での取り懸け方法はモンゴル式と分類される。他方、アーチェリー(洋弓)の場合は地中海式である。
[編集] 歴史
武士の表芸として弓馬の道とされ、戦国中期までは戦での主戦力であった。また、弓は霊器として敬われていた(現在でも破魔弓として信仰のなごりがあるが弓が矢と取り違えされている)。鎌倉時代には「騎射三物」と言われる、流鏑馬・犬追物・笠懸が盛んに行われたが、室町時代・安土桃山時代と時代が進につれて廃れてしまった。江戸中期、徳川吉宗により新しい流鏑馬が制定され、復興した流鏑馬が全国で奨励されて神社の神事などになった。江戸期に入ると、三十三間堂の軒下(長さ約120m)を射通す「通し矢」が次第に盛んとなり、各藩腕利きの藩士が藩の威信と自分の命を懸けて競い合った。戦国後期に「弓」が戦場の主戦力から後退するが、依然「弓射」は武士の表芸とされ、心身鍛練の道として弓が引かれて弓道が成立した。
[編集] 射形統一
昭和9年(1934年)、一貫流、竹林派、日置流、雪荷流、道雪流、大蔵流、大和流、小笠原流、大日本武徳会本部、により射形の統一が試みられ、「弓道要則」が制定された。経緯やその後は、弓道の「歴史・流派」の項を参照のこと。
[編集] 流派
現在では弓道を礼射系・武射系と分類しているが、本邦弓術の発達過程から考えると、戦場における徒歩(かち)による弓射から発展した「歩射」、馬上の弓射から発展した「騎射」、三十三間堂の通し矢から発展した「堂射」と分類される。この日本弓道の基本的な分類は明治期まで一般的であったが、時代が経つにつれて射手の多くからは忘れられていった。「歩射」「騎射」「堂射」の基本概念を根本に置くと、歴史的に流派を分類しやすい。
礼射系とされる小笠原流でも歩射と騎射は別物であり、「歩射」「騎射」「礼法」と分けて考えられ免許もそれぞれ別にある。武射系とされる日置流諸派でも、歩射と堂射の両方を行った流派もあるが、歩射を重んじて敢えて堂射を行わなかった流派もある。また、「歩射」「騎射」「堂射」の考え方から言えば、騎射系統の武田流や細川流の位置づけも容易である。
- 礼射系
- 流鏑馬、鳴弦、蟇目などの儀式はおおむね礼射系の流派が行っている。
- 武射系
- 江戸時代、三十三間堂での通し矢に参加した射手は武射系であった。
- 近代射法
[編集] 弓術家人物一覧
[編集] 鎌倉時代・室町時代
- 小笠原長清
- 武田太郎信義
- 小笠原貞宗
- 小笠原常興
[編集] 戦国時代
[編集] 戦国時代の弓術家
- 一宮随波斎-随波斎流創始者 足利義輝・今川氏真に仕える。
- 日置弾正正次-日置流(へきりゅう)
- 吉田印西(吉田源八郎重氏・一水軒印西・葛巻源八郎)-日置流印西派
[編集] 弓術に特に秀でていた人物
[編集] 江戸時代
- 石堂竹林坊如成
- 吉田六左衛門雪荷
- 伴道雪
- 森川香山
[編集] 明治時代以降
[編集] 関連項目
- 作者朝日重章は弓術師匠の朝倉忠兵衛の後継ぎと目され娘けいと結婚