後藤家信
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後藤 家信(ごとう いえのぶ、永禄6年6月5日(1563年6月25日・ユリウス暦) - 元和8年4月2日(1622年5月12日))は、戦国時代の武将。肥前後藤氏の第20代当主(武雄領主)。第19代当主後藤貴明の養子(実父は龍造寺隆信)。
[編集] 経歴
永禄6年(1563年)、龍造寺隆信の三男として生まれる。天正5年(1577年)、後藤貴明の実子晴明(後の龍造寺家均)を龍造寺隆信に養子に出す代わりに、龍造寺隆信の三男である家信が後藤貴明の娘槌市と結婚して貴明の養子となった。もともと後藤貴明は龍造寺隆信とは戦火を交えつつ時機に応じて和平を結ぶといった関係にあったが、龍造寺隆信の勢力が拡大するに及び、ついに龍造寺隆信の実子家信を養子として迎えざるを得なくなったのである。これ以降、明治維新に至るまでこの龍造寺の血脈は続くことになる。
天正7年(1579年)、家信は龍造寺隆信の筑後・肥後攻めに従って、三池の古賀城を包囲しこれを陥とすのに続き、相良、米良、宇土、麻生といった肥後衆と戦い首800を挙げたという。天正8年(1580年)、家信は龍造寺政家に従って柳川の蒲池鎮漣攻めに加わり蒲池鎮漣は龍造寺氏に降伏する。天正9年(1581年)には、龍造寺政家、江上家種(龍造寺隆信の次男)とともに肥後に攻め入り、隈府城主赤星統家を降伏させ、御船城主甲斐宗運、隈本城主城親賢らについては龍造寺隆信に服属する旨の起請文を提出したため本領を安堵している。
天正10年(1582年)には、蒲池一族でありながら先の蒲池鎮漣攻めに加わった田尻鑑種が龍造寺隆信に背いたため、龍造寺政家を大将に、家信と鍋島直茂が副将を務めこれを攻めた。
ルイス・フロイスの「日本史」によると、同年10月、家信はイエズス会長崎副管区長コエリュのところに使いを出し、イエズス会と交誼を結びたいので領地を寄進する旨及び場合によっては自分もキリシタンになっても良い旨申し出たが、実父龍造寺隆信の反対に遭い、入信を断念したとされている。
天正12年(1584年)、島津・有馬連合軍との戦いに臨んだ龍造寺隆信は、島原の沖田畷で討ち取られ、これに出陣していた家信も敗走する。そして武雄の後藤山城(塚崎城)を出て、要害の地である住吉城(武雄市山内町)に居を移した。なお、ルイス・フロイスの「日本史」によれば、隆信の死後、家信は再度コエリュにキリスト教への入信を打診している。しかしながら、龍造寺隆信の戦死、多くの龍造寺家臣の喪失、家信の兄弟による家信への悪辣な仕打ち等から気が狂って正常な判断ができなくなり、牢に入れられて監視を付される身となったと記されている。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉の島津征伐に際し参陣し、薩摩の湯浦まで攻め入ったという。
天正18年(1590年)、龍造寺政家の隠居の際、家信に対しても豊臣秀吉から知行目録が下され、杵島郡のうち長島方3,379.2石、杵島郡塚崎庄9,364.8石、下松浦郡のうち有田3,659.2石、小城郡のうち東郷330.7石の合計19,703,9石が家信の知行とされた。
その後、家信は豊臣秀吉の朝鮮出兵に参加する。まず、天正20年/文禄元年(1592年)の文禄の役では加藤清正に従って、徳原城を守り、朝鮮の二王子(臨海君、順和君)を捕らえるべく兀良哈(中国東北部)まで攻め入り、その後、文禄3年(1594年)正月に帰国している。また、慶長の役では、慶長2年(1597年)再び朝鮮に渡り、翌慶長3年(1598年)の正月、蔚山籠城中の加藤清正を救出するという功績を立て、清正から大刀一振りと大砲30挺を贈られている。その後、家信は病となって帰国したためその代理として嫡子茂綱が朝鮮に出陣している。
慶長6年(1601年)、佐賀藩鍋島氏の他、龍造寺4家(諫早、武雄、多久、須古)にも江戸に人質を差し出すことが求められる江戸証人の制度が導入され、翌年、家信は三男茂延を江戸に送っている(なお、茂延は元和9年(1623年)に江戸で死去している)。
[編集] 関連項目
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