沖田畷の戦い
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沖田畷の戦い(おきたなわてのたたかい)とは日本の戦国時代の1584年(天正12)3月に肥前国島原半島(長崎県)で勃発した九州の戦国大名である龍造寺隆信と有馬晴信・島津家久連合軍の合戦である。畷とは湿地帯の中に延びた小道の意味であるとされる。
[編集] 経緯
龍造寺氏は少弐氏の被官から下克上で戦国大名化し、龍造寺隆信の代に佐賀を本拠地として肥前国をはじめ、にわか仕立てではあるが肥後国半国、筑前国、筑後国、豊前国一部(佐賀県、熊本県北部、福岡県)を領し、戦国時代の九州では龍造寺氏、大友氏、島津氏の勢力が拮抗していた。龍造寺氏と薩摩国の島津氏は肥後を巡って対立し、隆信に従属していた日野江城の国人領主である有馬晴信は島津氏に接近して島津義久に内通して挙兵した。龍造寺軍が侵攻すると救援を求められた義久は肥後八代に進出し、弟の島津家久を総大将として有馬救援のために派遣する。
隆信は諸書により18,000から60,000の軍を率いて海路を島原半島北部から上陸し、神代から三会へ進み合計8,000余の有馬・島津連合軍と森岳城(島原城)付近の沖田畷にて対峙した。合戦は当初龍造寺軍の優勢に思われたが、開戦前の急な陣立て変更等で混乱をきたして有馬・島津軍の鉄砲隊を中心とした戦法や、島津軍得意の“釣り野伏せ”と呼ばれる敵を小道に誘い込み三方から攻撃を仕掛ける戦術に翻弄させられ、混戦の最中に大将龍造寺隆信は戦死し、龍造寺軍は総崩れとなり本城佐賀城に向け撤退した。龍造寺氏の没落後の九州では島津氏が成長する。