得河義秀
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得河義秀(とくがわ よしひで、生没年不詳)は、『吾妻鏡』によると、新田義重の庶子とされ、得川義季とまたはその庶長子の得川頼有(下野四郎太郎)と同人物ともされる人物。通称は三郎という。一説では、得河頼成の父ともいう。
[編集] 略歴・人物
[編集] 義秀の存在の謎
『吾妻鏡』によれば、仁安2年(1167年)夏6月20日に、義重の孫娘である来王姫(新田義兼の娘)がいとこの足利義純に嫁ぐ化粧料として、祖父・義重より新田荘内の世良田郷を中心とした6つの領地である郷を賜り、さらに引き続き19つの郷も賜与されたと記され、その中には得川(得河)郷は含まれてない、とある。
但し、これは嫁ぐ来王姫に祖父からの膨大な化粧料を与えられることは当時の常識では殆ど考えられず、実際は来王姫の叔父である四郎義季の誤りではないかと指摘されている。また含まれていない得川(得河)郷は義季の庶長子の得川頼有の領地とも、或いは兄弟とも同人物ともされる得河義秀の領地といわれる。
さらに、義季がこの世の人ではなくなった後世の文永9年(1272年)冬11月18日に、長楽寺の住持院豪が幕府の御家人である黒沼太郎入道に宛てた書状によると、義季が地頭としての『世良田地頭御建立長楽寺』がその文章の箇所に記されているという。この事項によっては、義季は世良田郷を領土とし、実際には“得川義季”と呼ばれず、“世良田四郎義季”と呼ばれていたようである。
また、『吾妻鏡』の記載によって、義季は父・義重から得川郷は与えられてはおらず、実際は義季自身が開拓し、前述のように、庶長子・頼有に与えたと記されている。または義季の兄弟とされる三郎義秀なる者に与えたともいう。
こうして見ると、義季は、吾妻鏡にある徳河三郎義秀とは同一人物というのは非常に疑わしい見方もある。但し『吾妻鏡』の記述では、得河義秀は源頼朝の上洛の際に、彼の兄弟とされる新田義兼や山名義範らと共に頼朝に2度ほども同伴したと記されている。
引き続き『吾妻鏡』の記載では…
- 文治4年(1188年)春正月20日、頼朝の伊豆・箱根・三島神社の参詣に得河三郎義秀が同伴。
- 文治5年(1189年年)夏6月9日、頼朝の鶴岡八幡宮参杯にも得河三郎が同伴。
- 建久2年(1191年)春2月4日の件に、得河三郎と同一人物とされる『新田三郎』の事項が記載。
- 建久6年(1195年)春3月10日の件にも、再び『新田三郎』が記述されている。
- 寛元元年(1243年)秋7月17日の件にも、世代から見て得川頼有と思われる『新田三郎』が再び記載。
だが、この『吾妻鏡』の記載を見ると、文治5年夏6月の箇所では、明らかに徳河義秀と世良田義季は同人物とするのには甚だ違和感が出る記述の部分があると思われる。その理由は義季の同母兄・義兼が13項目に記されており、徳河三郎義秀なるもの12項目に記されている。つまり、三郎義秀は義兼の兄という見方もあり得るわけである。また、その三郎義秀は『吾妻鏡』のみしか登場せず、場合によっては三郎義秀は実在しない人物ではないかともいわれている。
また、別の説ではこの三郎義秀こそ松平氏の祖ではないかという見方も伺える。少なくとも、義季の嫡子の世良田頼氏が徳川氏の祖という見方に、多くの史家による疑問視が根強いことを考えると、その辺りに隠された事項が見えるともいわれるが、真偽の程は不詳である。
また、徳川家康も自分の系図を調べる時に、この『吾妻鏡』と三郎義秀を自分の祖として大いに参照にしたともいわれる。