新田義兼
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新田義兼(にった よしかね、保延5年(1139年)~正治元年3月8日(1199年4月5日)?)は鎌倉時代の武将。新田義重の次男。新田氏本宗家総領2代目。生母は源親広(豊島下野権守)の娘という。
[編集] 概要・生涯
異母兄に山名義範(異説あり)、里見義俊。同母弟に世良田義季(『吾妻鏡』では得河三郎義秀と同人物という)、異母弟に額戸経義らがいる。子は一人息子の新田義房と娘の岩松女子(足利義純室)がいる。通称は新田次郎(または小太郎とも)、新田蔵人。また異母兄の太郎義俊が「大新田」と呼ばれたために、義兼は「小新田」と呼ばれたと言う。
崇徳天皇の中宮皇嘉門院藤原聖子に仕える。皇嘉門院の蔵人として任命される。父義重とともに当初、源頼朝のもとに参陣せず、「自立」を目指すが挫折し、頼朝に仕える。その後新田荘に籠もった父に代わり、御家人として幕府に出仕している。奥州合戦にも参陣したが、目立った軍功はなく、恩賞も与えられなかったようだ。幕府内でも冷遇されたらしく、官位を受任されることはなかった。
諸系図では正治元年(1199年)に没したとされるが、「正木文書」には元久2年(1205年)8月に源実朝から発給を受けた新田荘内12ヶ郷の安堵状が残っている。建保3年(1215年)3月の将軍家政所下文(「正木文書」)では義兼の妻新田尼に所領が安堵されていることから、その間に没したと見られる。
また、娘の岩松女子が足利義兼の庶長子の義純と結婚し、新田荘内岩松郷に住む。しかし、畠山重忠が元久2年(1205年)に北条氏、三浦氏によって討たれると重忠の娘と足利氏を婚姻させて畠山氏を存続させる話が出てくる。義純は新田義兼の娘と離婚し、重忠の娘(または重忠未亡人である北条時政女)と結婚して源姓畠山氏を称する。一方、義純が新田義兼の娘ともうけた岩松時兼、田中時明は、新田一族として新田荘に残っている。義兼とその妻の新田尼はこの二人の孫を溺愛し、多くの所領を相続させ、新田本宗家はますます所領が減少した(岩松氏参照)。
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