愛知和男
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愛知 和男(あいち かずお、旧姓:中田、1937年(昭和12年)7月20日 ‐ )は、日本の政治家、衆議院議員(9期)。東京農業大学客員教授。国際親善協会会長。日本国際フォーラム評議員。日本バスケットボール振興会会長。
環境庁長官(第2次海部内閣)、防衛庁長官(細川内閣)を歴任。
生年月日 | 1937年(昭和12年)7月20日 |
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出生地 | 東京都品川区 |
出身校 | 東京大学法学部卒業 |
学位・資格 | 学士 |
前職・院外役職(現在) | 会社員 |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
衆 |
世襲の有無 | 2世 義父・愛知揆一 |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
比例東京ブロック |
当選回数 | 9回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(二階派) |
党役職(現在) | 衆議院議員総会副会長 党紀委員会委員 |
会館部屋番号 | 衆・第1議員会館322号室 |
ウェブサイト | 愛知和男公式ウェブサイト |
目次 |
[編集] 略歴
生家の中田家は、富山の薬品製造の老舗で、叔父に元富山県知事の中田幸吉がいる。日比谷高校を経て東京大学法学部卒業後、日本鋼管に入社。1964年、愛知揆一の養女、絢子と結婚し愛知家に婿入りする。
第一次石油危機の最中、田中角栄内閣の大蔵大臣だった愛知揆一が急死したため、跡を継ぐ形で1976年、旧宮城一区から衆議院総選挙に立候補し、当選した。以後、連続8回当選。自民党田中派、竹下派に所属し、外務政務次官、自民党国際局長を勤めた。国際通、文教族として活動する。また、宮城県では、同じ選挙区のライバル三塚博と「三愛戦争」とよばれる対立が続いた。
1990年、第2次海部内閣で環境庁長官に就任。環境族として台頭するが、竹下派分裂に当たっては、羽田孜・小沢一郎らと共に改革フォーラム21(羽田派)に参加。羽田派の政策責任者となる。
1993年に自民党を離党し、新生党結党に参加。同年の細川内閣では中西啓介の引責辞任に伴い、後任の防衛庁長官として入閣。次第に小沢一郎に対して批判的な立場を取り、新進党を離党、自民党に復党した。2000年、衆議院総選挙で、民主党の新人・今野東に敗北・落選した(1区現象)。2002年、病気を理由に政界引退を表明。以後、関西大学および東京農業大学の客員教授。環境政策を教えた。
2005年、二階俊博の誘いにより衆議院総選挙で自民党の比例東京ブロック26位で立候補し当選、政界復帰を果たす。
参議院議員の愛知治郎は次男。政治学者の櫻田淳は彼の政策担当秘書を務めていたことがあり、2005年の政界復帰後、再び政策担当秘書となり、大学講師と兼任している。
[編集] 趣味
クラシックオペラを嗜んでおり、聴衆としてだけではなく、ときにはチャリティコンサートなどに合唱団として参加している。
- 東大時代は、東大コール・アカデミーという当時100名近い団員を抱えた男声合唱団のマネージャーを務めた。
- 1987年にコンピュータゲーム『ドラゴンクエストII 悪霊の神々』のエンディング曲および卒業式に使われる曲としても名高い『この道わが旅』で歌手デビュー。
- 2003年4月に開催されたオペラ「愛の妙薬」(池田理代子主演)に村人役で出演した。
[編集] 著作
- 『次世代の日本へ-野に在りて国を思う-』恒文社21、2002年10月。
- 『各界首脳と語る』不昧堂出版 (1986/11)
- 『ここを変革すれば日本は必ずよくなる』かんき出版1995年9月。
- 『地球環境の視点に立った世直し論―日本を変える、世界を変える』プレジデント社1992年5月。
- 『共生世界論―どうする、これからの世界と日本』 プレジデント社1994年10月。
[編集] 外部リンク
- 愛知和男公式サイト
- Aichi Jiro Net(愛知治郎ホームページ)
[編集] 関連項目
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