二階俊博
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生年月日 | 1939年(昭和14年)2月17日 |
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出生地 | 和歌山県御坊市 |
出身校 | 中央大学法学部卒業 |
学位・資格 | 学士(中央大学) |
前職・院外役職(現在) | 和歌山県議会議員 衆議院議員秘書(遠藤三郎) |
所属委員会 ・内閣役職(現在) |
経済産業大臣 |
世襲の有無 | 無 父・二階俊太郎 (稲原村長、和歌山県議会議員) |
選出選挙区 (立候補選挙区) |
和歌山3区 |
当選回数 | 8回 |
所属党派(現在) | 自由民主党(二階派) |
党役職(現在) | 国会対策委員長 |
会館部屋番号 | 衆・第2議員会館223号室 |
ウェブサイト | 二階俊博事務所ホームページ |
二階 俊博(にかい としひろ、1939年(昭和14年)2月17日 - )は、日本の政治家。衆議院議員(8期)。自民党国会対策委員長。運輸大臣、北海道開発庁長官、経済産業大臣、保守新党幹事長を歴任。
目次 |
[編集] 略歴
和歌山県御坊市出身。父の二階俊太郎は稲原村長(印南町に合併)、和歌山県議会議員を務めた。
和歌山県立日高高等学校を経て1961年(昭和36年)に中央大学法学部を卒業し、静岡県選出の衆議院議員で建設大臣を務めた遠藤三郎の秘書となる。遠藤の死後、和歌山に戻り、1975年(昭和50年)に和歌山県議会議員に立候補し、当選し2期務めた。1983年(昭和58年)、旧和歌山2区から自由民主党公認(田中派)で第37回衆議院議員総選挙に立候補、5万3611票を獲得し、2位当選(以後7期連続当選)する。
竹下派結成に当たっては、二階は、田中に対する配慮と師事していた遠藤三郎が元藤山愛一郎派に属しており、そのつながりで江崎真澄に近いことから創政会には参加しなかったが、その後、奥田敬和ら中間派が竹下派に参加したことを契機に自身も参加する。
1990年(平成2年)、海部俊樹内閣で運輸政務次官に就任。1992年(平成4年)の竹下派分裂の際は、小沢一郎に同調し、羽田孜派(改革フォーラム21)に参加。1993年(平成5年)、宮沢内閣不信任案に賛成し、自民党を離党、小沢らと共に新生党を結成に参加した。総選挙後、発足した細川連立政権で運輸政務次官に就任する。
細川・羽田政権後、新進党にも参加し、「明日の内閣」の国土・交通政策担当などを務める。また、小沢側近として小沢党首選出に尽力した。1998年(平成10年)、小沢に従い自由党に参加。国会対策委員長として自自連立政権樹立に動き、1999年(平成11年)の第二次小渕恵三改造内閣で運輸大臣兼北海道開発庁長官として入閣する。
同年の通常国会から自自連立に公明党が加わり、10月には正式に自自公連立が成立。
2000年(平成12年)4月、自由党の政策が実現されないと連立解消を主張する小沢と袂を分かち、野田毅らと保守党を結成し、自公保連立政権を作る。小渕内閣を引き継いだ森喜朗内閣で留任。
同年7月、保守党国会対策委員長に就任。2001年(平成13年)に保守党幹事長に就任。
2002年(平成14年)、保守新党でも幹事長に就任するが、2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙で保守新党は代表の熊谷弘が落選するなど惨敗し、自民党に吸収された。復党後、旧保守新党の議員らで二階グループを結成し会長となる。2004年(平成16年)9月、自民党の総務局長に就任。
2005年(平成17年)5月、小泉首相より指名を受け、郵政民営化法案を審議する特別委員会の委員長に就任。郵政民営化法案の衆院通過に尽力した上、その後の郵政解散による第44回衆議院議員総選挙では選挙責任者の総務局長として候補者擁立などに奔走し、自民党圧勝の功労者となった。その功績を買われて2005年10月に成立した第3次小泉改造内閣では経済産業大臣として入閣した。
2006年9月、小泉首相が自民党総裁任期満了に伴い、安倍晋三が総裁に就任し、民主党代表である小沢一郎への対策として、自民党国会対策委員長に就任した。
[編集] 政治活動
[編集] 中国政策
自民党内の親中国派の有力議員の一人である。まだ保守新党が存続していた時代、地元の田辺市の新庄総合公園に江沢民が自筆で書いた「登高望遠睦隣友好」と言う文字と、2000年の二階も参加した日中文化観光交流使節団に対して江が発表した重要講和を刻んだ日中国交正常化30周年記念碑の建立を計画し、全国にも同様の石碑を建立する心算であったが、地元の抵抗等もあって頓挫した。
また、東シナ海の日中中間線でのガス田開発問題で、麻生外務大臣が中国のガス田開発強行に断固対応する姿勢を示すと、この「日本の対応に『こそ』問題がある」「強硬に対応するなら勝手にやればいい」と述べたことなど、二階の対中政策のスタンスは一部から批判が根強い。2006年5月には、自宅に剃刀の刃を“中国に媚びるな”等となじる「自殺勧告状」と共に送りつけられた。
[編集] 国対政治
自由党、保守党時代に国会対策委員長を務め、自民党でも国対委員長の現職にある。1999年の通常国会では、自民党国対委員長の古賀誠、公明党国対委員長の草川昭三としばしば懇談し、3人は当時の流行歌から「だんご3兄弟」「談合三兄弟」と称された(「自自公「三兄弟」の活躍」二階のサイトより)。二階はこれを逆手に取り、西川太一郎(当時、自由党国対副委員長)主催の形でだんごを食べながら国政を語るという「だんごの会」を計画。会期末間近の8月8日に開催され、「3兄弟」そろって参加することで結束をアピールした。自自公連立政権成立に、3人は大きな役割を果たしたと言われる。その後も3人は強いパイプを保った。
馳浩によると、「その人脈と調整力と勝負カンの鋭さと気配りは、衆目の一致するところ」であるという(「永田町通信 76 『二階マジック』」)。同じく馳の記事によると、2005年の郵政民営化法案審議では、民主党の筆頭理事であった中井洽の弱みを利用し、中井の顔を立てる形で採決には協力させた。また、2006年10月9日に北朝鮮が核実験を実施したが、二階はあらかじめ6日に「週末に北朝鮮が核実験をもしも行ったら、世界で唯一の被爆国である日本は、強い抗議声明を国民総意として世界に発信しなければならない。そのためには、与野党の国会対策責任者がその準備をしておかねばならない。土日祝日だからといって危機管理の対応が疎かになってはならん。いざという時には休日であっても集まって、本会議を開く準備をしておこう!!」と各党の国対委員長の元に出向いて頭を下げてお願いに回っていた。その結果、翌10月10日に、核実験への非難決議を、全会一致で採択させることができたという。
[編集] その他
PSE問題では、自らの責任を責任転嫁し、多くの反感を買った。この二階俊博の責任転嫁発言は、テレビ・雑誌でも数回取り上げられ、批判の対象となっていた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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