戦争レクイエム
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『戦争レクイエム』(せんそう―、War Requiem)は、ベンジャミン・ブリテンの作曲したレクイエム(鎮魂ミサ曲)である。ブリテンの代表作として筆頭に上げられる。彼の集大成とも言えるこの作品は、単に第二次世界大戦の犠牲者の為のレクイエムではなく、だからと言って通常の教会音楽でもない。
彼はこの曲のスコア冒頭に次のような、詩人ウィルフレッド・オーウェンの一節を書き記している。
「私の主題は戦争であり、戦争の悲しみである。詩はその悲しみの中にある。詩人の為しうる全てとは、警告を与えることにある」
この文は「戦争レクイエム」の持つ性格を端的に現しているだけでなく、戦争を2度と繰り返さない為の作者の深い祈りがこもっている。
この曲は名目上、1962年5月に英国ウォリックシャーのコヴェントリーという都市にある聖ミカエル教会に新たに建立された大聖堂の献堂式を行うために、この教会の委嘱によって書かれた。この教会自体も第二次世界大戦中の1940年、ドイツ空軍の大空爆によって破壊されたのであった。この空爆はその後「空爆で破壊する」という意味を持つ conventraize という新しい動詞を生み出すほどの有名なもので、いわばイギリス国民にとって第二次世界大戦を象徴すると言っても過言ではないほど悲惨な体験の1つであった。これは日本が1945年3月の東京大空襲を受け、「空襲」といえばこれを指す事に通じるものがあるだろう。ブリテンは1960年後半から作曲中であった他作品を中止してこの作品に取り組み、1961年12月に完成させた。そして予定通り、1962年5月30日の献堂式に初演された。
ブリテンはこの大作の初演のソリストをソ連のソプラノ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤ、イギリスのテノール、ピーター・ピアーズ、ドイツのバリトン、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとすることを初めから考慮して作曲したといわれる。第二次世界大戦ヨーロッパ戦線の中心的交戦国であり、戦争の恐怖と被害を身に沁みて体験したこれら三国の最も優秀な歌手を一堂に集めることで、真の和解を確認して平和への誓いを固めたいという願いからだった。折りしも1962年といえば冷戦の真っ只中。この時に初演を迎えるからこそ意義のあった作品である。
しかしガリーナ・ヴィシネフスカヤは、夫であり作曲者の友人でもあったムスティスラフ・ロストロポーヴィチの急病とソ連当局の出国停止命令により不可能となり、実際の初演は次のメンバーで行われた。
- 総指揮:メレディス・デイヴィス
- 小管弦楽団指揮:作曲者
- ソリスト
- ヘルタ・テッパー(ソプラノ)
- ピーター・ピアーズ(テノール)
- ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バス)
- 管弦楽:バーミンガム市交響楽団
- 小管弦楽:メロス・アンサンブル
- 合唱:コヴェントリー祝祭合唱団
- 児童合唱:ストラトフォード聖トリニテ教会児童合唱団
ヴィシネフスカヤの代役として出演したイギリスのソプラノ、ヘルタ・テッパーに与えられた猶予期間は僅か10日間だったが、彼女は見事に歌い上げ、初演は各方面から大絶賛を受けたが、これに反して作曲者は曲の真価と偉大さに相応しくない不満な出来であったという。この曲は引き続いてロンドン・ウェストミンスター寺院やロイヤル・アルバート・ホールで演奏されたが、完璧な演奏とブリテンが自負したのはその後ロンドン・キングスウェイホールでロンドン交響楽団と演奏し、総指揮もブリテン自身が執った録音が最初だったのである。この録音にはヴィシネフスカヤも参加した。
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