ノート:手塚治虫
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[編集] 文章校正
「てにをは」と同内容の重複・移動を行いました。ずいぶんすっきりしたはずです。 尚、内容等はほとんど手を加えていません。 既存項目の分類・整理にとどめました。—以上の署名の無いコメントは、220.155.42.15(会話/whois)氏が[2006年8月11日 (金) 21:57]に投稿したものです(Hiroakitaによる付記)。
[編集] ふしぎなメルモ
ふしぎなメルモって確かエイズのことを知ってもらうための性教育アニメだったはずがあんなふうになっちゃったというヤツじゃありませんでしたっけ?少女向けでいいの? あと、タイガーブックスってアンソロジー?
- 「メルモ」はエイズ以前からある作品です。そのような疑問が出る理由を提示して下さい。それから、ノートには署名を入れて下さい(上のツールバー、右から2番目のボタンを押すか、マイナス記号二つとチルダ4つで出来ます)。ここは匿名が容認される2ちゃんねるではありません。--124.155.16.100 2006年6月1日 (木) 15:20 (UTC)
[編集] ページ分割の提案
作品リストってどこまで書けばいいの?やっぱり百科事典なんだから全部書いたほうがいいの?すごい量になるんだけど…藤井イサナ 00:08 2003年9月14日 (UTC)
- 当然、全部書くべきでしょうが、記事を別に作る必要があるでしょうね。手塚治虫漫画作品一覧という名前でどうでしょう?ジャンル別より、五十音順か発表順が良いのでは?それなら、誰でもがはっきり判るでしょうし・・・お茶の水博士 16:51 2003年9月19日 (UTC)
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- 闇雲に一覧などと言う記事を作ると、ただ単にスタブ記事が増えるだけではないでしょうか?一般的な読者と言うのは別に手塚氏の作品全てに興味があるわけではありません。ただ単に手塚氏とはどういう人物でどういう傾向の作品を生み出したのかを知りたいだけです。したがって、まずは作品一覧などというあまり意味のない記事を作らないで、本記事の中で、手塚氏の代表作を選び、詳しく記述してみてください。--Yoshitaka Mieda 17:23 2003年9月19日 (UTC)
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- まあ書かれていない記事はたくさんあるし徐々に広げていけばいいってことですね藤井イサナ 21:42 2003年9月19日 (UTC)
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- 作品一覧は、あまりに多すぎて、他の項目を圧迫しているように見えてしまいます。別ページにして節・項で区切ることで、互いに見やすくなると思うのですが、いかがでしょうか?名称は、「手塚治虫の作品一覧」でどうでしょうか。--60.116.28.2 2006年5月7日 (日) 04:52 (UTC)
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- テンプレート貼りましたので、あとはよろしくお願いします。--idea 2006年9月17日 (日) 21:41 (UTC)
- 分割に賛成です。分割作業にうつって欲しいです。61.46.30.85 2007年1月5日 (金) 13:29 (UTC)
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- 分割しました。--222.0.165.19 2007年2月22日 (木) 12:53 (UTC)
[編集] 昭和とともに去りぬ
なんで和暦なの?! 218.217.38.122 06:31 2003年12月14日 (UTC)
- 手塚先生は昭和を象徴する存在だから、ということでいかが? Kadzuwo 04:00 2004年3月13日 (UTC)
[編集] 年齢
小島剛夕の過去版にありましたが、年齢詐称が事実なら書くべきですね。検索しても何歳上になっていたかははっきりしなかったので、詳しい方にお任せします。(検索中に学歴も詐称していたという情報も見かけました)--燈馬想 2005年2月25日 (金) 08:11 (UTC)
偽称というのかどうかは不明ですが1926年生まれと称していたそうです。ただし由来については、年下に見られて馬鹿にされないため、という説と、どこかで出版社が間違えて紹介してしまい、めんどくさいので(あるいは出版社に恥をかかせないため)そのままにした説があります。生前はずっと1926年生まれで通していたので、生前に作られた資料は全部そうなっています。
学歴詐称というのは、多分「大阪大学医学部卒」という記述をしたことがあるらしい、というのを伝聞で聞いています。(手塚の卒業した「大阪帝国大学医学専門部」は、軍医を促成栽培するための学校なので、卒業しても学士号がもらえません)もっともまわりの人間は皆、医学専門部卒だということを知ってましたので、詐称に当たるのかどうかは疑問です。また、当時、経歴は、出版社とかが適当に書いていたこともあるので、適当な編集者がいた、という可能性もあります。読者である子どもに、学歴を簡単に説明するためにそう言ったんじゃないか、という好意的な見方がされることが多いです。
当時の(大阪大学卒と書かれた)履歴は、ネットで探したところ次のようなものがありました。Modeha 2005年2月25日 (金) 08:30 (UTC)
http://mcsammy.fc2web.com/plologe.html
- 「年下に見られて馬鹿にされないため、という説と、どこかで出版社が間違えて紹介してしまい、めんどくさいのでそのままにした説」……デビューするとき、手塚「僕、十八歳でまだ学生なんですが」出版社「未成年か。じゃあ二十歳ってことにしておこう」みたいなことがあったそうですので、どっちの説もあっているようです。「卒業しても学士号がもらえません」……これははじめて知りました。医学教育課程には詳しくないのですが、学士号なしでも医師国家試験は受けられるのですか?--Darkmagus 2006年5月6日 (土) 14:20 (UTC)
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- 戦前は旧制大学を出た学士号を持つ医師養成コースと、専門学校を出た学士号を持たない医師養成コースの二本立てでしたので、それが新制大学の学制に変化して、すべて学士号を持つ医師養成コースに変化する過渡的な時代のことですね。つまり、国家の医学の先端部を牽引するエリート医師と、裾野を支える層の厚い一般医師の養成コースが分離していたのですよ。まぁ、当時の専門学校は今日の新制大学とほぼ同格ですけどね。現在で言えば、看護師の養成コースが看護学校と大学看護学部に分離していて、大学院卒看護学博士の看護師から、看護学校卒の看護師までの多様性があるのと似ていますね。年齢「詐称」や学歴「詐称」の件は、成り行きや周囲の思惑が複雑に絡んで、本人も漫画執筆の実力に自信は持っているので、もういいやって感覚もかかわっていたでしょうから、単純な話ではないでしょう。昨今の政治家の学歴詐称のような問題とは一線を画すべきだと思います。ただ、同世代の昆虫少年(あの世代は全国規模で文通しあって濃密な交流があることが多いようです)には旧制大学に進学した人も多かったはずなので、そういう点では大学出ということに複雑な思いがあった可能性はあります。--ウミユスリカ 2006年5月7日 (日) 01:00 (UTC)
[編集] Category:日本共産党の消去
Category:日本共産党を消去しました。もちろん赤旗で連載を持っていたし、一部の共産党候補の応援をしたことがあるらしいので、全く無関係というわけではないでしょうが、このカテゴリ自体がマルクスの研究家や衆議院議員などにつけられていることを考えると、単に政党機関紙で連載を持っていただけで入党の事実も確認できない人物はカテゴリづけをするのは無理があると思います。Modeha 2005年8月12日 (金) 10:13 (UTC)
[編集] ディズニー
手塚がウォルト・ディズニーをマンガの神様と呼んだ、というくだりが、アニメの神様と呼んだ、に書き換えられていましたが、実際に手塚はディズニーをマンガの神様と呼んでいます。根拠となる文献は『手塚治虫対談集 続「虫られっ話」』(1995年)です。ので戻しました。Modeha 2005年9月13日 (火) 09:57 (UTC)
[編集] 藤子・F・不二雄
「手塚の最初期のアシスタントであった藤子・F・不二雄によれば」という記述がありますが、F先生は手塚治虫のアシスタント経験はないはずです。A先生が『ジャングル大帝』の最終回とかその他何回か手伝っているようですが。あと、全然話は変わりますが、このノートの一番上の方に「ふしぎなメルモって確かエイズのことを知ってもらうための性教育アニメだったはず」とありますが、エイズの症例が正式に報告される十年近く前の作品なのでそれはないと思います。--Darkmagus 2006年5月6日 (土) 14:20 (UTC)
- 私も漫画史にはあまり詳しくないのですが、当時は今日のような「アシスタントシステム」、つまり駆け出しの漫画化が専任のアシスタントとしてメジャーデビューした漫画家を補助して効率的に作品を生み出すという体制は完成していなかったのではないでしょうか。つまり、今日のそういう「漫画生産システム」を前提とした社会の視点から当時を振り返ってみると、「アシスタント」のようなこともやっていたということになってしまうのではないでしょうかね。そのあたりを漫画史に即して書く必要があるのかもしれません。--ウミユスリカ 2006年5月7日 (日) 01:04 (UTC)
該当部分を執筆した者です。手塚のアシスタントをしていたという文章は当事者の記述では見あたらなかったのですが、手塚の自伝的作品「がちゃぼい一代記」には、手塚が藤子不二雄Aと藤子・F・不二雄とみられる二人組に無理矢理漫画を書くのを手伝わせているコマがあります。根拠として提示できる文献は私の知識ではそれだけです。フィクションの中身だといわれるかもしれませんが、実名で出ていること(手塚の作中での表記は単に「藤子氏」)、藤子・F・不二雄や手塚本人などの関係者がこの部分は事実と異なるという指摘をしていないようなので、ある程度は信頼できるかと思いました。ただ、藤子・F・不二雄がもし手塚の作品づくりを手伝ったとすると、1954年頃の上京したての頃と考えられますが(それ以前だと距離が離れすぎ、その後は藤子側が忙しすぎ)、その頃、藤子・F・不二雄は結核を患っていたそうなので、医者でもあり大先輩である手塚の作品づくりを積極的に多量に手伝ったことはないとも思えます。いずれにしても該当部分は、第三者の記述ではなく、手塚と大いにかかわりのあった人物の発言なので、ある程度は注意して見る必要があるという警告の意味で付け加えたものなので、事実に合ったもっとよい表現があれば訂正していただくことに異議はありません。「手塚の弟子だった藤子・F・不二雄によれば」とかいう書き方も変ですし、単に「藤子・F・不二雄によれば」のほうが今のところはよいのかもしれません。Modeha 2006年6月7日 (水) 11:32 (UTC)
(訂正)執筆時に使用した文献をもう一度当たりなおしてみたところ、小学館版『手塚治虫―21世紀をデザインしたまんが家』で、藤子・F・不二雄が、手塚の手伝いをしたと明言している部分がありました。ただ、週刊漫画雑誌等については藤子の直接の言及はなかったのでそこのところは直しておきます。Modeha 2006年6月9日 (金) 11:45 (UTC)
- し、知らなかった……。ごめんなさい、確かめもしないで……。それはさておき、F先生がどの作品のどのあたりを手伝ったのかは書いてありませんでしたか? ものすごく気になるのですが。--Darkmagus 2006年6月9日 (金) 14:58 (UTC)
この文献は、児童向けの漫画の手塚の伝記で、現在でも手軽に手に入ります(2006年にも増刷されています)。藤子・F・不二雄の文章は、巻末の解説です。一般的な新刊書店でも、ちょっとしたところなら手に入ると思いますので、そちらを参照されることを望みます。ただ、自作の解説や自伝をほとんど書かない藤子・F・不二雄が生前に記述した文章として、根拠たり得る重要な記述だと私は思います。あいにく、どの作品を手伝ったのか、というのは記載されていませんでした。手塚側の記述(がちゃぽい一代記)、藤子・F側の記述(小学館版『手塚治虫』)の両者の記述がそろったという点で、この内容にはそれなりの信憑性があると考えます。なお、藤子・Fは、「アシスタント」と「手伝い」を分けようと記述している風な点があります。藤子・Fは、自身はアシスタントと呼べるような立派な働きはしていない、という謙遜の意味だとも考えられます。Modeha 2006年6月11日 (日) 13:31 (UTC)
[編集] 『ぼくはマンガ家』には要注意です
「医学者・手塚治」の節において、
>手塚本人は、医業が本業で漫画は副業と称していたが、
とありましたが、これは『ぼくはマンガ家』(1969年、毎日新聞社)からの引用です。この"自伝"には次の論評があります。漫画評論家の米澤嘉博から「COMIC BOX」1989年5月号で「嘘ばっかり書いてあるんだって。あれもフィクション」、桜井哲夫『手塚治虫 時代と切り結ぶ表現者』(1990年、講談社現代新書)では「この自伝じたいかなり小説になっているとかんがえたほうがいい」など。読めば分かると思いますが、手塚流のサービス精神で、面白おかしく脚色して書いている自伝であり、「医業が本業で漫画は副業」というのを言葉どおり受け取って百科事典に記すことはないかと。要するに手塚のギャグでしょう? 除去しました。虫プロダクションの由来の蒸しプロも同類のジョークの可能性が強いわけですが。
その他にも手塚治虫が読者を楽しませようと、エッセイでの悪気のないサービス精神での作り話が矛盾よくあることは、「手塚治虫と路地裏のマンガたち」や「手塚治虫はどこにいる」、「手塚治虫解体新書」で指摘されていることで、冗談っぽい記述はいくら本人の発言といってもあまり真に受けない方がよろしいかと。--Wing09 2006年12月20日 (水) 16:35 (UTC)
追記。少年マガジンの宮原照夫の「実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記」でも手塚がエッセイで面白おかしく創作を挿入することが指摘されています。--Wing09 2006年12月25日 (月) 14:24 (UTC)
引用部分だけが記載されていたらそれは問題でしょうが、実際には漫画が本業だったって書いてあるんだから問題ないじゃないですか。むしろ、「ぼくはマンガ家」を読んだ読者が鵜呑みにしないよう注意する意味でもこの記述は必要です。この件については既にノート:虫プロダクションで説明済みじゃないですか。何であのとき言わなかったんですか?Modeha 2006年12月27日 (水) 09:15 (UTC)
Wikipedia:検証可能性#「真実かどうか」ではなく「検証可能かどうか」を考えるに消す必要はないでしょう。『ぼくはマンガ家』(1969年、毎日新聞社)によれば~と出典を出した上で記載し、続いて「しかしながら○○によれば××と指摘されており脚色については留意する必要がある」と桜井哲夫の出版物なり手塚治虫解体新書なりを出典として用いればいいのでひゃないでしょうか? 「手塚氏が述べたという事実」と「手塚氏の事実」は矛盾するかもしれませんが「手塚氏が述べた事実」と「手塚氏が脚色していると指摘されている事実」はお互いに成り立つものです。--Chiether 2006年12月27日 (水) 09:49 (UTC)
特にご異議がなさそうなので復活させました。Modeha 2007年1月20日 (土) 00:00 (UTC)
[編集] 少年雑誌の週刊化
- 手塚の最初期のアシスタントも務めた藤子・F・不二雄によれば、プロダクション形式をとり、大量のアシスタントを雇って作業を分担させ、ひと月に100ページを超える執筆を可能にしたのは日本では手塚が最初である。この手法が取り入れられたことにより、週刊漫画雑誌の刊行が可能になった。 この週刊連載化は、多くの漫画家にとって過酷な生活を強いる原因ともなっており、下記に挙げる「アニメの功罪」と合わせて、手塚への批判の一つになっている。
この部分をコメントアウトしました。ノートによると、小学館版『手塚治虫―21世紀をデザインしたまんが家』が出典ですかね。この解説だとあたかも手塚治虫によってマンガ週刊誌が可能になったかのようですが、通説とは異なり、一般的な評価ではありません。というか、こんな評価や手塚に対する批判など聞いたことありません。研究者や内田勝、宮原照夫、西村繁男といった週刊化に立ち会った編集者の書籍を読んでも。マンガ研究家の夏目房之介や竹熊健太郎が高く評価している中野晴行の『マンガ産業論』に月刊誌の時代から週刊誌の時代の流れを解説していますが、ここで手塚治虫は特権的な地位ではなく、さいとうプロ、タツノコプロ、赤目プロ、水木プロと並べられて、虫プロはその中の一つとなっています。また因果関係も逆であり、週刊マンガ雑誌の登場により、プロダクション化していったのだと説明しています。戦前からの徒弟制度や手伝いとはシステムが異なるものだということです。また、週刊サンデーや週刊マガジンは登場当初、マンガは主要ではあったものの、週刊漫画雑誌ではなく、半分くらいが読物やグラビアの総合雑誌に近いもので、週刊漫画雑誌というのも正確ではありません。
さらに言えば週刊でのマンガ供給を可能にしたのは、少年マガジンによる漫画原作者による分業化の本格化、月刊誌の時代には中央の雑誌で書いていなかった貸本マンガ家の起用が上げられております。そして、少年雑誌の週刊化は、週刊新潮の成功による出版社系の週刊誌時代の到来の影響というのが一般に言われていることです。手塚によって少年サンデーや少年マガジンが生まれたわけではありません。そもそも少年サンデーより先に企画された少年マガジンは手塚獲得に失敗しています。それと、藤子・F・不二雄をアシスタントというのもどうかと。現在のアシスタント制のような常勤でもなんでもなく、知り合いの漫画家の手伝いに近いものであり、誤解を招くと思われます。--Wing09 2006年12月25日 (月) 14:24 (UTC)
マガジンはそうだったかもしれませんが、同日に創刊したサンデーは、ページの半分以上が連載漫画です。連載は6本あって、手塚のみ15ページ、8ページが4本、2ページが1本です。もっとも、多くの漫画家が「くたばって」しまって、連載ならぬ数週の分載みたいになっていないか確認しましたが、創刊号で連載を持っていた漫画家全員が、1年以上連続して連載を持っています。いったん連載が途切れても、すぐに新しい連載を始めています。たとえば、手塚の「スリル博士」は半年で連載は終わってますが、すぐに「0マン」が始まってます。ストーリー漫画を週刊誌で連載するというシステムはこのとき確立したとみてよいでしょう。手塚プロダクション公式サイトにもそのような表記があります。[1]。もちろん当事者の記述ですから、7割くらいは間引いて読む必要はあるかもしれませんが、少なくともそういう言及がある、とは述べておきます。マガジンは違ったのかもしれませんが、この時代、マガジンだけが少年向け週刊雑誌ではありません。それと手塚は、サンデーとマガジン両方から頼まれたけどサンデーのほうがほんのちょっと早く頼みに来たのでサンデーで書くことになったみたいことを言ってるみたいですね。サンデーよりマガジンのほうが企画が先、ってのも事実かどうか確認できません。webでざっと見たところだと、企画はサンデーが先行していて、あとからマガジンが創刊されることが分かって、あんなでかい出版社相手じゃ勝ち目がないって創刊前からサンデーが困ってたとかいう逸話を紹介しているサイトは見つかりましたが。それと、少なくともサンデー創刊時の手塚の体制は、知人に手伝ってもらうとかいうスタイルを完全に超えています。寺田ヒロオも、「アシスタントを使って漫画を描くというスタイルは、手塚さんが最初でしょう」と言っている。さらに、手塚は雑誌「漫画研究」で1954年にアシスタント募集の求人広告を出してます。これにははっきり「アシスタント」と書いてあります。サンデーの創刊の5年前です。Wing09氏の説明はそういう主張があるという意味では聞くことはできますが、時代的に若干合わないようです。藤子・F・不二雄自身は、自身は手塚のアシスタントとは書かずに「手伝い」と書いてます。なんなら「アシスタント(本人は手伝いと表記)」に変えますか? 逆に、藤子不二雄Aのほうは、自ら「手塚治虫のアシスタント1号」を名乗ってます。少なくともAのほうは、自身がアシスタントだったという認識はあったはずです。また、Aがアシスタントを行っていた時代は、手塚が求人広告を出した時代と少し重なっています。恐らくAは、2号アシスタント、3号アシスタントと入れ替わりで(Fと一緒に)アシスタントを引退したのでしょう。Modeha 2006年12月27日 (水) 09:36 (UTC)
特にご異議がなさそうなので復活させました。Modeha 2007年1月20日 (土) 00:00 (UTC)
[編集] 医学者・手塚治としてのスケッチ
Yasuzumi, G., Tanaka, H., & Tezuka, O. (1960). Spermatogenesis in animals as revealed by electron microscopy: VIII. Relation between the nutritive cells and the developing spermatids in a pond snail, Cipangopaludina malleata Reeve. The Journal of Cell Biology, 7, 499-503. (The Journal of Cell Biology) フリーでアクセスできる論文です。スケッチも出てきますが、じっくり読んでいないので手塚の手によるものかはわかりません。手塚の描いたものだと確証されれば、「出典・脚注」として挙げてよいと思いますが、いかかでしょうか。また、ひとつ疑問点があります。本文で、当時の日本には電顕写真を撮影する技術がなかったと書かれていますが、この論文のプレートに出てくるのは、電顕写真ではないでしょうか。この2点、私もできるかぎり調べてみようと思いますが、どなたか調べていただけると嬉しいです。Shaz 2007年1月9日 (火) 22:42 (UTC)
- 大下英治 「手塚治虫 - ロマン大宇宙」(ハードカバー上下巻, のちにまとめて文庫化, 文庫のISBN-13 978-4062734257)の中で、当時アシスタントだった古谷三敏が、手塚氏の学位論文のためのスケッチを描かされた旨の記載がありますので、当時の手塚氏の仕事量からみて、自身の手によるものと断定するのは難しいと思います。--ちていじん 2007年1月13日 (土) 12:09 (UTC)