扶余豊璋
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扶余豊璋(ふよ・ほうしょう、生没年不詳)は百済最後の義慈王(在位641年~660年)の王子。しばしば余豊璋と表記される。倭国滞在中、百済本国が唐・新羅に滅ぼされたため、百済を復興すべく帰国した。中国史料では余豊と呼ばれる。『日本書紀』には百済名をクゲというとある。
豊璋の来日時期は『日本書紀』によれば舒明天皇3年(631年)3月であるが、朝鮮側史料『三国史記』百済本紀には義慈王13年(653年)倭国と通好すとあるので、この頃ではないだろうかとする説もある。『書紀』には既に孝徳天皇の650年2月15日、造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席している。豊璋は日本と百済の同盟を担保する人質ではあったが、日本側は太安万侶の一族多蒋敷の妹を豊璋に娶わせるなど、待遇は賓客扱いであり決して悪くはなかった。
660年、唐・新羅の連合軍が急に百済を滅ぼしたという知らせが届いた。唐軍は百済征服後、大部分が引き上げ、1万の駐留軍が残るだけであるので、百済の佐平・鬼室福信らが百済を復興すべく反乱を起こしたという知らせも来た。当時、倭国の実権を掌握していた中大兄王(後の天智天皇)は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することを決定、都を筑紫朝倉宮に移動させた。662年5月、倭国は豊璋に狭井檳榔、秦田来津の二将率いる兵5000と軍船170艘を添えて百済へと遣わし、豊璋は約30年ぶりとなる帰国を果たした。豊璋と倭軍は鬼室福信と合流し、豊璋は百済王に推戴されたが、次第に実権を握る鬼室福信との確執が生まれた。663年6月、豊璋はついに鬼室福信を殺害した。しかしこの暴挙により百済復興軍は著しく弱体化し、唐・新羅軍の侵攻を招くことになった。
豊璋は周留城に籠城して倭国の援軍を待ったが、8月13日、城兵を見捨てて脱出し、倭国の援軍に合流した。やがて唐本国から劉仁軌の率いる7000名の救援部隊が到着し、8月27、28日の両日、倭国水軍と白村江(韓国では「白江」、「白馬江」ともいう)で衝突した。その結果、倭国・百済連合軍が大敗した。いわゆる白村江の戦いである。豊璋は数人の従者と共に高句麗に逃れたが、その高句麗も内紛に付け込まれて668年唐に滅ぼされた。豊璋は高句麗王族らとともに唐の都に連行され、高句麗王らは許されて唐の官爵を授けられたが、豊璋は許されず、嶺南(中国南部)地方に流刑にされた。
なお日本には豊璋の弟・禅広が残っており、その子孫が持統天皇から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜って百済の王統を伝えた。
[編集] 万葉歌人軍王
『万葉集』に「軍王」と称する人物が舒明天皇の行幸に供奉した際に作った和歌が収録されているが、この「軍王」を「こにきしのおおきみ」と読み、豊璋のことではないかと見る説(青木和夫)がある。