扶余
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扶余(ふよ、부여〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fúyú〕)は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は挹婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)接する、方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に住んでいた。夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。
穀物は余り良く育たない土地に定住したが、好戦的であり、歌舞飲酒を好み、風俗は淫乱であったと記録される。
元々前漢の玄菟郡に属し、その後、三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の配下に入った。しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。
この扶余族には、沃沮(よくそ)・濊(わい)・高句麗なども含まれ、朝鮮半島北部を中心に広く分布していた。他に百済王家も扶余系とみられ、南扶余と国号を自称していた時代がある。また、百済王の姓も扶余または余と名乗っている。
[編集] 建国神話(東明伝説)
元来は扶余の始祖としての東明伝説があったが、後に高句麗の始祖朱蒙伝説に合わさって、高句麗の東明聖王伝説となっていったと考えられる。「東明聖王#扶余の建国伝説との比較」及び「東明聖王#建国神話」を参照のこと。
[編集] 関連項目
- 東扶余
- 『三国史記』高句麗本紀・東明聖王紀によれば、高句麗の始祖朱蒙(紀元前1世紀)が出る前のこととして、扶余の宰相の阿蘭弗が扶余王解夫婁(かいふろう、ヘブル)に「天の神の子孫がいずれ国を作ります。東海に迦葉原(かはばる、かしょうげん)という地があり、そこは五穀が良く実ります。ここを離れ、その地に都を遷してください。」と進言し、解夫婁はその地へ遷都し、東扶余を建国した。
- 解夫婁が東方に移った後に、天帝の子を名乗る解慕漱(かいぼそう、ヘモソ)が扶余に現れ、扶余王となった。解慕漱の死後に金蛙王が扶余王となり、金蛙王のもとで育った朱蒙が扶余から逃れて卒本扶余で高句麗を建国する。
- 南扶余
- 百済の聖王が538年に泗沘に遷都した後に自称した国号。
[編集] 参考文献
- 『三国史記』第2巻 金富軾撰 井上秀雄訳注、平凡社〈東洋文庫425〉、1983 ISBN 4-582-80425-X
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