扶余郡
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扶余郡 | |
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位置 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 부여군 |
韓国における漢字: | 扶餘郡 |
片仮名転写: | プヨグン |
ローマ字転写: | Buyeogun |
情報 | |
国: | ![]() |
面積: | 634.9km² |
総人口: | 82,546人(2005年4月) |
上位自治体: | 忠清南道 |
下位行政区画: | 1邑15面 |
行政区域分類コード: | 34330 |
扶余郡の木: | [[]] |
扶余郡の花: | [[]] |
扶余郡の鳥: | [[]] |
自治体公式サイト: | 扶余郡 |
扶余郡(プヨぐん、ふよぐん)は、大韓民国忠清南道の郡である。百済最後の都があった。面積634.9平方キロ、総人口82,546人(2005年4月現在)。過疎化で若干減少気味となっている。1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶余邑。
目次 |
[編集] 地理
忠清南道西南部、錦江(白馬江)流域に位置し、北は忠清南道青陽郡、公州市、東は論山市、南は錦江を隔てて全羅北道益山市と接する。西は海に近い忠清南道保寧市と舒川郡となる。 行政区域は扶余邑と窮岩面、恩山面、外山面、内山面、九竜面、鴻山面、玉山面、南面、忠化面、良化面、林川面、場岩面、世道面、石城面、草村面に分かれる。
[編集] 歴史
538年から660年まで6王123年にわたって百済王国の都であった泗沘の地である。 統一新羅、高麗時代には扶余県となり、李氏朝鮮時代には林川郡の下に扶余県、鴻山県、石城県が設置された。 1895年に県は郡に変更、1914年3郡は扶余郡に統合(16面)され、1964年扶余面が邑に昇格した。
[編集] 行政
- 郡守:金茂煥
[編集] 観光
- 国立扶余博物館 1945年国立博物館扶余分館設置、1971年新館開館、1975年国立扶余博物館に昇格、1993年金城山に移転。
- 扶蘇山 海抜94メートル、百済時代の扶蘇山城があった。
- 王宮址 扶蘇山南側一帯とされる。
- 定林寺址 王都時代の中心的寺院。国宝の五層石塔が今も残る。
- 落花岩 百済滅亡時、宮女投身の伝説がある。
- 百済文化祭 かって百済の都であった扶余と公州が交代で毎年10月6日から9日まで開催する。
[編集] 交通
ソウルから高速バスで3時間前後。
[編集] 出身著名人
[編集] 姉妹都市
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 扶余郡公式サイト(日本語)
- 扶余郡公式サイト(韓国語)
- 扶余教育庁公式サイト(日本語)
- 扶余教育庁公式サイト(韓国語)
- 国立扶余博物館(韓国語)