摩阿姫
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
摩阿姫(まあひめ、元亀3年(1572年) -慶長10年10月13日 (1605年11月23日))は、前田利家と芳春院の三女。芳春院腹ではなく、側室の子とも言われている。初めは豊臣秀吉の側室になり、後に万里小路充房に嫁ぐ。 名は摩阿・麻阿。
摩阿は天正10年(1582年)に柴田勝家の家臣、佐久間十蔵と婚約し、北ノ庄城に入る。 ところが、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家は秀吉に敗れ、十蔵も 自害してしまう。摩阿は城外に脱出し、前田家に戻った。 天正13年(1585年)に秀吉の側室になり「加賀殿」と呼ばれるようになる。 しかし、彼女は体が弱く、実家の前田邸で過ごす事が多かったという。 慶長3年(1598年)の3月に秀吉が催した醍醐の花見に、秀吉の正室や他の側室達と共に出席する。 その時に摩阿が詠んだ和歌。「あかず見む幾春ごとに咲きそふる 深雪の山の花のさかりを」 この後、彼女は病気を理由に、秀吉の側室を辞した。 その後は公家の万里小路充房の元に嫁ぐ。前田利忠を産むが、充房とは離婚した。 その後は利忠を連れて金沢に帰り、慶長10年(1605年)の10月13日に死去。 息子の利忠は前田藩に仕えた。