芳春院
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芳春院(ほうしゅんいん、1547年7月25日(天文16年7月9日) - 1617年8月17日(元和3年7月16日))は加賀国(石川県)の大名前田利家の正室。名はまつ。篠原一計の子。母が利家の母の姉である為、利家とは従兄妹関係にあたる。学問や武芸をたしなむという女性であった。
尾張国(現在の愛知県海部郡七宝町)に生まれる。1550年(天文19)に父が没し、母が尾張守護斯波氏の家臣高畠直吉と再婚すると、まつは利家の父前田利昌に養育される事となる。1558年(永禄元)、12歳で利家に嫁ぐ。利家との間に、翌59年に生まれた長女幸(前田長種室)から、利長(1562年生)、利政(1578年生)、次女蕭(1563年生、中川光重室)、豊臣秀吉の側室となった三女摩阿姫(1572年生、後に万里小路充房室)、四女豪姫(1574年生、豊臣秀吉養女、宇喜多秀家室)、五女与免(1577年生、浅野幸長婚約者、夭折) 六女千世姫(1580年生、細川忠隆室、のち村井長次室)など2男6女を産む。豊臣秀吉の正室高台院と懇意の間柄で、秀吉から化粧領を拝領している。
1583年(天正10)、利家が賤ヶ岳の合戦において柴田勝家方について敗れると、秀吉と和議を持つため越前府中において会談し、和睦を許される。
1599年の利家没後に出家し、芳春院と号する。1600年(慶長5)、前田家に徳川家康から謀反の嫌疑がかけられた際、それを解消させるため自ら人質となって江戸に下り、14年間をそこで過ごした。この間、関ヶ原の合戦で西軍についた次男・利政の赦免や、養育していた利孝の大名取り立てを幕府に直訴するなど前田家のために奔走する。ところが、利政の赦免の約束は土壇場で反故にされ、ショックから重体となり、幕府の命により伊勢・京で保養。しかし、金沢へは立ち寄りすら認められなかった。1614年(慶長19)に利長が死去し、ようやく金沢へ帰国。1617(元和3)に金沢城内で死去、享年71。