斯波義統
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斯波義統(しばよしむね、永正10年(1513年) - 天文23年7月12日(1554年8月10日))は斯波義銀、毛利秀頼、津川義冬の父。
家系は三管領筆頭の斯波氏の嫡流の血筋である。同じ斯波家一門には高水寺において勢力を持つ高水寺斯波氏や奥州探題・大崎氏や出羽に配置した一族に最上氏などもいる。
尾張守護 斯波義達の後を継いだが、この頃の斯波氏の嫡流はすでに往年の力を失っていた。応仁の乱以降は管領職はほぼ細川氏の独占となっており、所領も本来は尾張国・越前国・遠江国を領有していたが、父・義達の代には越前、遠江両国の支配を失していた。
また、本国である尾張国も守護代であった織田氏が実権を握り、義統の代には守護の斯波氏も傀儡化していた。
尾張国では織田氏が応仁の乱以降、一族が二派に分裂していたが、庶流の台頭もあり一族内で抗争を繰り広げていた。そうした中、尾張下四郡の守護代であった織田信友は上四郡の守護代である織田信安や台頭する一族の前に自身が織田氏の宗家であることを示す意味で実権のない尾張守護・斯波義統を傀儡として擁したのである。特に配下である清洲三奉行の一人、那古屋城主・織田信秀の台頭が目覚しく尾張が織田信秀を中心にまとまりかけていた矢先であり、織田信友は足利将軍の一族であり、守護である義統を名目上の守護として自身の居城清洲城に住まわせていた。義統は常に信友に操られるだけであったらしく、傀儡としての扱いに不満を見せはじめ、両者の対立が深まっていった。また、政治的な対立以外にも、織田信秀の側室岩室を巡って争ったともいわれている。
1554年、義統はそんな信友に嫌気が差したのか、信友が織田信長の暗殺計画を企てたとき、義統は信長にその計画を密告して助けを求めた。しかし、それを知った信友は激怒し、義統嫡男の斯波義銀が家臣を率いて川狩りに出かけた隙を縫って信友が家臣で尾張小守護代・坂井大膳がともに守護所に攻め入り、義統を自害させた。
義統の仇討ちは、嫡男義銀が織田信長に救いを求めたことにより、信長の手により果たされる。信長にとって織田信友は名目上の主君であり、戦国大名として台頭していた信長にとっては主従関係というしばり故に眼の上の瘤であった。しかし、信友が守護を討ったことで、信長は主家を守護を討った謀反人として葬ることができたのである。
信長は上四郡守護代家をも討ち、傀儡守護・斯波義銀をも追放した。これで守護、守護代勢力の消え去った尾張国は信長の手によって統一されていくこととなる。