新田義興
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新田義興(にった よしおき、元徳3年/元弘元年(1331年) - 正平13年/延文3年10月10日(1358年11月11日))は、南北朝時代の武将である。新田義貞の次男、母は上野国一宮抜鉾神社神主天野時宣の女。長兄に新田義顕、弟に新田義宗の兄弟がいる。幼名、徳寿丸。
1337年(建武4年/延元2年)、奥州の北畠顕家が西上する。これに呼応して上野で挙兵し、北畠顕家の奥州軍に加わる。吉野で後醍醐天皇に謁見し、元服。父義貞の戦死後、越後に潜伏したと見られる。
観応の擾乱が起こると、鎌倉の奪還を目指して上野国で北条時行らとともに挙兵する。正平一統が破綻すると、1352年(正平7年/観応3年)に宗良親王を奉じて弟義宗、従兄弟脇屋義治と挙兵。鎌倉を一時占拠するが、尊氏の反撃にあって鎌倉を追われる。尊氏が没した半年後の1358年(正平13年/延文3年)、尊氏の子で鎌倉公方の足利基氏と関東管領の畠山国清によって送りこまれた竹沢右京亮と江戸遠江守により、義興と主従13人は、多摩川の矢口渡で謀殺される。
官位:従五位下左近衛将監。また、左兵衛佐。 法名は正英。
義興の死後、謀殺の下手人であった江戸某が義興の怨霊により狂死したため、現地の住民が義興の霊を慰めるために神として祭ったという記述が、古典「太平記」にある。後に新田大明神として尊崇される。歌舞伎の「神霊矢口渡」は、この事件を扱ったものである。東急多摩川線の武蔵新田駅の"新田"は、新田大明神を祭った新田神社に由来する。