日中共産党の関係
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日中共産党の関係 (にっちゅうきょうさんとうのかんけい) は、日本共産党と中国共産党の関係である。1966年には両党はイデオロギー的な対立を深め、1967年3月に発生した善隣学生会館事件によって完全に敵対関係になった。両党の関係は1998年まで修復されなかった。
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[編集] 中ソ対立と日中共産党の関係
コミンテルンの配下で成立し、世界共産党と日本支部と中国支部という位置づけだった日中の共産党の間に独自の関係が成立するのは、第二次世界大戦後かなり遅くなってからである。少なくとも1950年代後半に中ソの共産党の対立が顕在化するまでは、日中共産党の関係がそれ自体として問題になる余地は存在していなかったといえる。第二次世界大戦後、ソ連、東欧諸国、中華人民共和国などの「共産圏」諸国が形成され、アメリカを中心とする「自由主義」諸国との冷戦構造に発展したが、1950年代後半には「共産圏」の両大国であるソ連と中国の間に深刻な対立があることが明らかになり、中ソ論争へと発展していった。日本共産党は当初、ソ連共産党を修正主義として批判する中国共産党を支持する立場にいたが、1966年にはアメリカのベトナム侵略戦争に反対する統一戦争の形成方法をめぐって中国共産党と対立関係になった。
[編集] 宮本顕治と毛沢東と会談の決裂
1966年3月28日、訪中していた日本共産党代表団(団長:宮本顕治書記長(当時))と中国共産党主席毛沢東の上海における会談が、中国側の申し出により急遽設定された。宮本顕治の手記[1]によれば、3月始めに北京で中国側と会談し、「双方の主張に共通点もあったが、不一致点も大きかった」ため、双方で「共同声明やコミュニケを出そうという発意はなされず」次の訪問地の北朝鮮に向かった。平壌で共同声明を発表した後、北京を通って帰国するが、「北京はただ通過するだけで、そのまま帰国する予定であった」。しかし、中国側から共同コミュニケを発表するよう提案されたので、それに応じたという。
宮本の手記によれば、双方の人員でコミュニケを作成する小委員会を作成し、意見の異なるところを避けて文面をまとめた。つまり、日本共産党は理論的にはソ連共産党を修正主義として批判していたが、ベトナム支援の統一戦線にはソ連も含める必要があると主張し、共同コミュニケではソ連を名指しで批判することには応じなかったということになる。日共側の認識では、これですべての手続きは終わって、上海にいる毛沢東との最終的な会談を儀式的に経た後にコミュニケを発表することになるというものであった。しかし、上海での毛沢東との会談で、毛沢東は、
私はあのコミュニケを読んでたいへん不愉快だった。これは主題がはっきりしない。現代修正主義とあるが、だれを批判しているのかわからない。中国共産党も日本共産党もソ連の修正主義を公然と批判しているのだから、はっきり名指しで書かなければ駄目だ。このコミュニケは妥協的だ。私はどうしてもいわなくてはならない。このコミュニケは勇気がなく、軟弱で、無力である
といい、文面の大幅な修正を求め、これに日共側が応じなかったために、コミュニケは発表されないことになったという。
毛は最後にこういったと言う。
私もこれ以上話すことはない。ただ一言二言ある。あなた方の態度はソ連共産党指導部に歓迎されるだろう。これが一言目。私たちは歓迎できない。これが二言目。コミュニケは発表できない。あなたたちの方でコミュニケを出すことを要求しないのに、われわれが出そうといったのはまちがいだった
代表団は広州に移動したが、大規模な歓迎会はすべて中止された。
[編集] 対立の原因
日本共産党の主張によると、毛沢東の指導する中国共産党が文化大革命という「誤った」政策に走り、中国が自ら孤立の道を選んだことが対立の原因であるというような解釈をしているが、1960年代の中国はアメリカなどの「自由主義」諸国の深刻な威嚇と封じ込め政策によって孤立しており、ユーゴスラビア、ハンガリーあるいはチェコなどに対する強圧的なソ連の政策に見られるように、ソ連からの圧迫にも対抗する必要があり、すでに危機的な状況にあったといえる。日本共産党は日本の戦後民主主義を受け入れて合法政党の道を歩みながら、日本国内では少数派だが、世界的に統一された「社会主義陣営」が存在することによって国内の地位を高めることができるという利害関係上、各国の共産党の相互の「平等」と相互批判が可能な環境の中で社会主義陣営が存在するような状況が望ましかったと考えられる。しかし、朝鮮戦争やベトナム戦争でアメリカの直接的な威嚇に直面し、長く国境を接するソ連との対立を抱えている中国共産党にとって、中ソ対立はそのような理論上の対立ではなく、国家の存立をかけた深刻な問題であった。中国共産党が日本共産党に、そのような危機感を共有する同志としての行動を望む場合、合法政党に徹しようとしていた日本共産党との間の関係は必然的に対立関係にいたらざるを得なかったと考えられる。とはいえ、毛沢東と宮本顕治の会談の時期に中国共産党が日本共産党に武装闘争を強要したというような俗説もあるが、実際にはそのような露骨な発言があったということは考えにくく、それを裏付ける文献も存在しない。そのような表面的な口論がなくとも、両党の対立が発生する要因は強く存在していたのである。
[編集] 対立時期の経過
不破哲三など日本共産党側は、この後、中国共産党は、「日本共産党指導部を打倒する」という方針を出し、自らの影響下にある日本共産党員に対して「日本共産党を打倒して自分たちが新しい党をつくれ」という指令を出したと主張する。その後の動きは以下のようになる。
- 1966年9月 日本共産党山口県委員会の一部が脱党し以降「日本共産党(左派)」を名乗る。以降、一部の党組織で脱党が繰り返され、「日本労働党」、「日本共産党(マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)が分派した。
- 1966年10月 日本共産党は北京留学中の党員数名を除名。以降、北京で日本共産党員(元・現)間の暴力事件が多発
- 1966年10月 毛を支持する党中央委員西沢隆二(筆名ぬやまひろし。徳田球一の娘婿)を除名
- 1966年10月25日 日中友好協会が、代々木派・反代々木派(中国支持派)に分裂
以降、大衆団体の日本アジア・アフリカ連帯委員会、日本ジャーナリスト会議、新日本婦人の会も分裂。
- 1967年1月~ 日本共産党が中国共産党と国内の「毛沢東一派」を名指しで批判
- 1967年2月28日から3月2日にかけて、東京で善隣学生会館(現:日中会館)事件が発生し、日本共産党側の日中友好協会を支援する日本共産党のゲバルト部隊がヘルメットと棍棒などで武装して在日中国人学生らに暴行し、在日中国人と支援の日本人に7名以上の重傷者が出た。
- 1967年8月 在北京の日本共産党駐在員と、赤旗特派員に対し、中国が集団暴行
- 1967年8月 歌舞伎役者河原崎長十郎が大衆団体の劇団前進座から事実上の決裂。
このころまでに、千田是也、杉村春子(文学座)、中島健蔵(仏文学者)、井上清(歴史学)も日本共産党から脱党
不破はこう述懐する。「わが党の党員で、当時、息子さんや娘さんが留学などで中国にいたりしたため、対立したまま家族が別れ別れになり、三十年間、親子の関係を断絶している同志も少なくありません」「事件が起こるまで、私たちに連帯していた人たちの中には、中国側の干渉できずなが切れ、いまだに日本の平和・民主運動の中で立場を失っている人びとが数多くいます。」
[編集] 関係修復
日中両共産党の党間関係は中国共産党側からの提案により1998年に修復した。このときの合意文書[2]では、中国共産党が文化大革命時の日本共産党への干渉について非を認めた。しかし、この関係修復をもって1967年の中国共産党の政策が誤りであり、同年の日本共産党の政策が正しかったなどと考えることはできない。1967年における両共産党の対立は、コミンテルン時代の世界革命の前衛としての世界共産党の各国の支部という立場が完全には解消されていない状態での理論的な対立を含んでいた。日本共産党から少数の人々が分裂し、日本共産党(左派)というような組織を作ることに対し、日本共産党が激しく中国共産党を非難したことについては、そのような革命の前衛の正統性を争うという側面を見なければ全く解釈することも説明することもできない。
両党の関係が修復された1998年は、すでにソ連が崩壊した後であり、中国は国連に復帰し、文化大革命を解消し、社会主義市場経済といった理論でソ連型社会主義から完全に脱皮していたが、日本共産党もマルクス=レーニン主義の基本理念に対する根本的な解釈の変更を進行させ、あらゆる意味で資本主義国内の議会制民主主義政党に変貌していた。つまり、両党は国際社会に復帰し、どのような政党とも交流を持つ中国の政権政党と、日本の一革新政党としての党間の交流関係を確立したのであり、1966年当時の論争や政策の対立の理論的あるいは政治的な決着をつける場はすでに完全に失われていたし、そのような決着の必要性もなくなっていたのである。
[編集] 歴史的な評価
日本共産党は1967年以降30年間にわたり、中国共産党および中国政府との正常な関係を築くことができなかったが、この時期は中華人民共和国が国際社会に復帰し、日中国交が回復されたという重大な転機に当たっていた。日本共産党は日中友好という大きな政治課題について、重要な転換点でアクターとして加わることができなかった。結局この課題は、社会党、公明党、自民党の一部、あるいは日本共産党が「盲従分子」とか「トロツキスト」などと言って非難していた過激な少数の政治勢力などの人々の手に担われることになった。