日本科学技術振興財団
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財団法人日本科学技術振興財団(にほんかがくぎじゅつしんこうざいだん)は、1960年に科学技術水準の向上に寄与することを目的とする民間の中枢機関として設立された。「科学技術館」および「所沢航空発祥記念館」の運営母体でもある。
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[編集] 部門
現在は、振興部、企画開発部、科学技術館運営部、情報システム開発部、航空記念館運営部の各部門が運営されている。
また科学技術学園高等学校(学校法人科学技術学園)の設立母体でもある。
[編集] 振興部
振興部は、本物の科学や技術に一般の人が触れる事ができるような普及啓発活動を行っている。
- 「青少年のための科学の祭典」などは、振興部の事業である。
[編集] テレビ放送事業
現在のテレビ東京の前身・「日本科学技術振興財団テレビ事業本部(通称東京12チャンネル)」の免許人であったことは、大変有名である。当時のVHF12チャンネルは、在日米軍がレーダー用に使っていたチャンネルであり、津野田知重がアメリカへ単身で返還を要望しに行ったが、彼は財団とも関わっており、すぐに認可された。
1964年4月12日に開局。「科学テレビ」という愛称で親しまれた。国からは、科学技術教育番組60%、一般教養番組15%、教養・報道番組25%を放送するという条件があったので、娯楽性のある番組は無いに等しかった。ちなみにこの頃12chが映らないテレビも多かったため、アンテナがあっても受信できないという事態が発生した。
科学テレビは、毎月数千万円の赤字を出し、1966年には放送時間の大幅な短縮を強いられたが、他のテレビ局が科学テレビ協力委員会を発足させ、それらの協力を得て、一般的な番組も放送されるようになった。更に、財団形式では、経営などに無理があったので、1968年に株式会社東京12チャンネルプロダクションを設立した。
日本経済新聞は、1969年11月1日、経営を引き受け、正式に参加。その後、日経は「科学テレビ」をグループの電波媒体とした。1973年10月31日に、科学テレビは幕を閉じた。「株式会社東京12チャンネルプロダクション」は「株式会社東京12チャンネル」となり、財団が経営を東京12チャンネルに移行させたとともに、免許も教育局から一般総合局に変わった。