日野市朗
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日野 市朗(ひの いちろう、1934年2月17日 - 2003年7月6日)は昭和、平成期の弁護士、政治家。民主党衆議院議員。第1次橋本内閣の郵政大臣。
昭和9年(1934年)2月17日宮城県桃生郡河北町(現在の石巻市)に生まれる。父日野吉夫は、農民運動出身の衆議院議員で、日本社会党副委員長を務めた。
昭和31年(1956年)中央大学法学部を経て、中央大学大学院を修了する。昭和39年(1964年)仙台市で弁護士を開業する。父親の影響から社会的弱者の側に立つ市民派弁護士として活躍し、昭和48年(1973年)仙台弁護士会副会長に就任する。父吉夫が健康上の理由で引退を決意すると、社会党委員長だった成田知巳の勧めで昭和51年(1976年)第34回衆議院議員総選挙に旧宮城2区から日本社会党公認で立候補し6万7338票を獲得し当選する。当選回数通算8回。昭和61年(1986年)第38回衆議院議員総選挙(衆参同時選挙)では、まさかの落選を喫すが、平成2年(1990年)第39回衆議院議員総選挙で当選し、国政に復帰する。社会党では右派に所属した。平成5年(1993年)細川内閣が成立し、政策審議会長の上原康助が入閣し後任の政審会長に就任する。平成8年(1996年)第1次橋本内閣で郵政大臣として入閣する。同年社会党が社会民主党に改称し副党首となるが、社民党を離党し民主党に参加した。民主党では、代議士会長などを務めた。
小選挙区比例代表並立制が成立し、地元石巻市を中心とする小選挙区宮城5区が地盤であったが、新党さきがけ出身の安住淳との間で候補者調整、選挙協力がなされ、平成8年(1996年)第41回衆議院議員総選挙で比例東北ブロックに回った。当初、日野と安住は、小選挙区と比例区を交代して立候補するという約束を結んでいたが、日野後援会の高齢化などから、小選挙区は安住、比例区は日野という棲み分けができる。
平成15年(2003年)7月6日癌のため死去。69歳。
父吉夫以来、農村の生活向上を目標とし、月に1度は鳴子町の農民の家で無料で法律相談会を実施していた。
[編集] 関連図書
- 『日々是選挙~代議士の家族はツライ!~』日野睦子著 睦子は、日野吉夫の三女で日野市朗の妹にあたる。
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