本多忠民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
本多忠民(ほんだ ただもと、文化14年2月26日(1817年4月12日) - 明治16年(1883年)1月29日)は、江戸時代末期の大名、政治家、老中。三河岡崎藩主。官位は従四位下侍従。上総介、中務大輔、美濃守。隠居して子駿。讃岐高松藩主松平頼儀の5男。岡崎藩本多忠考の養子となる。
幕府では寺社奉行、京都所司代を経て老中を勤めた。 安政4年(1857年)、京都所司代となり、朝廷対策、特に条約締結問題で朝幕間を奔走する。万延元年(1860年)より2年ほど老中を務めたが、元治元年(1864年)に再任の台命が下ったときは一旦は固辞しているが、結局就任した。明治維新の際は岡崎藩を恭順に統一した。
藩主の座は信州小諸藩から養子に入った本多忠直(牧野康哉の子)が継いだ。
[編集] 経歴
- 1817年(文化14年) 生誕
- 1835年(天保6年) 岡崎藩襲封
- 1846年(弘化3年) 寺社奉行
- 1857年(安政4年) 京都所司代
- 1858年(安政5年) 所司代を辞任、溜詰格
- 1860年(万延元年) 老中に就任。
- 1862年(文久2年) 辞任
- 1864年(元治元年) 老中再任され老中首座を務める
- 1865年(元治2年) 辞任
- 1869年(明治2年) 隠居
- 1883年(明治16年) 死去。享年67
|
|
|