高松藩
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高松藩(たかまつはん)は江戸時代、讃岐国(香川県)を領有した藩。当初は讃岐一国を領していたが、松平氏の代になり半国の東讃地域を領することとなった。藩庁は高松城(高松市)。
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[編集] 藩史
豊臣氏家臣の生駒親正が、秀吉の四国平定後の天正15年(1587年)に、讃岐一国17万3千石を与えられたことに始まる。親正の子、一正は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに於いて東軍に加担し所領を安堵された。しかし、四代藩主高俊の寛永17年(1640年)にお家騒動(生駒騒動)により改易、出羽国矢島藩に転封となった。
讃岐国は一時、隣国伊予国の3藩、西条藩・一柳直重、大洲藩・加藤泰興、今治藩・松平定房により分割統治されることとなった。
翌、寛永18年(1641年)西讃地域に山崎氏が入り丸亀藩が興った。
そして、その翌年、寛永19年(1642年)東讃地域に、常陸国下館藩より御三家の水戸徳川家初代・徳川頼房の長男・松平頼重が12万石で入封し、実質的に高松藩が成立した。頼重は入封にあたり幕府より西国諸藩の動静を監察する役目を与えられた。
頼房は兄である尾張藩徳川義直・紀州藩徳川頼宣に先だって子を設けたことを憚って、長子・頼重ではなく第三子・光圀を水戸藩主に立てた。しかし、光圀は長兄・頼重に憚り、水戸藩主の座を頼重の子である綱条に譲り、光圀の長子である頼常を高松藩主に据えた。松平氏は入封当初より、高松城下に水道を引き、潅漑用に溜池を造るなど、水利の悪い讃岐の地を整備した。また、塩田開発を奨励した。藩財政は江戸後期に至るまで比較的安定していたが、幕末には財政は逼迫した。
松平氏五代藩主頼恭は平賀源内を起用し城下の栗林荘(現在の栗林公園)に薬草園を作らせた。また、医師の向山周慶に製糖技術を学ばせ白糖の製造を可能にした。これにより塩・綿と並ぶ讃岐三白の一つである讃岐和三盆糖の製造技術が確立し現在も香川県名産品の一つとなっている。
幕末は宗家である水戸藩が尊皇に傾き、また逆に最後の藩主・頼聰の妻が井伊直弼の娘という立場から、苦しい立場に立たされた。結局、慶応4年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは幕府方に付き朝敵となった。これにより土佐藩・丸亀藩などが高松城下に進駐することとなったが、戦わず恭順を示したことにより赦免された。
明治4年(1871年)廃藩置県により高松県となり、のち香川県となった。
[編集] 歴代藩主
[編集] 生駒(いこま)家
外様 17万3千石 (1600年 - 1640年)
[編集] 松平(まつだいら)〔水戸(みと)〕家
- 頼重(よりしげ)〔正三位、讃岐守・左近衛権少将・参議〕
- 頼常(よりつね)〔従四位下、讃岐守・左近衛権少将〕水戸藩主徳川光圀 実子
- 頼豊(よりとよ)〔従四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼桓(よりたけ)〔従四位下、讃岐守・侍従〕
- 頼恭(よりたか)〔正三位、讃岐守・左近衛権中将・参議〕
- 頼真(よりざね)〔従四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼起(よりおき)〔従四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼儀(よりのり)〔従四位上、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼恕(よりひろ)〔従三位、讃岐守・左近衛権中将・参議〕
- 頼胤(よりたね)〔正四位下、讃岐守・左近衛権中将〕
- 頼聰(よりとし)〔従二位・讃岐守〕