本山茂辰
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本山 茂辰(もとやま しげとき、1525年(大永5年) - 1564年(永禄7年))は、戦国時代の武将。土佐七豪族の本山氏当主。本山氏の最盛期を作り上げた本山茂宗の嫡男。妻は長宗我部国親の娘。子に本山貞茂(のちに本山親茂)、本山茂慶(内記)、本山茂直(又四郎)。
茂辰に娘を嫁がせ、本山氏の一門衆同様の扱いを受けていた国親は、服従の姿勢を見せつつ次第に本山氏居城朝倉城の周辺豪族を調略して力を蓄え、本山茂宗の死後跡を継いだ本山茂辰に、反旗をひるがえす。裏切られた形の茂辰は土佐平野を治める朝倉城を拠点に、長宗我部国親と一進一退の抗争を続ける。 一度ならず長宗我部の軍勢を撃退するも、国親側の調略により次第に押される形となる。その途上国親は病死。その後を継いだ長宗我部元親と対立・抗争を尚も繰り広げた。合戦では力負けせず頑強に抵抗するも、元親の調略に抗しきれず、朝倉城を焼いて本拠本山城に退去する。その後も土佐平野の奪還に向け家臣団をまとめようと尽力するが、それも虚しく本山城にて病死することになる。