本山親茂
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本山 親茂(貞茂)(もとやま ちかしげ(さだしげ)、1545年(天文14年)? - 1587年1月20日(天正14年12月12日))は、戦国時代の武将。最盛期土佐の国中部を支配した土佐七雄に数えられる本山氏の当主。本山茂辰の嫡男(母は長宗我部国親の娘で長宗我部元親の姉。)。元の名を貞茂といい、長宗我部氏へ臣従後「親茂」と改名。太郎左衛門、将監。
戦国時代初期の因縁により争い合っていた本山家と長宗我部家を和睦させるため、土佐西部の大名一条氏の取り成しで行われた両家の婚姻により、本山氏の嫡男として生を受ける。 長宗我部家当主、長宗我部国親の政略逞しく、その後も争いは小康期間を置いて収まらなかった。長浜の戦いで敗北し、朝倉城と土佐平野部の失墜後、父茂辰が病没。後を継いで徹底抗戦を続けるが、長宗我部元親(国親の子)は本山城近くの森城に、かつて本山氏に追い落とされた森氏を帰城させ本山氏を圧迫した。親茂は本山城も捨て、叔父の守る瓜生野原(瓜生野城)に撤退し、なおも抗戦し何度も寄せ手を撃退するが、耐え切れず遂に軍門に降った。
その後、もともと元親と叔父甥の関係であったこともあったのであろうか、元親に気に入られて一字を与えられ親茂と名乗り、一門衆に加えられ、長宗我部家の嫡男長宗我部信親の家老として仕える。四国征伐により長宗我部氏が豊臣氏に臣従すると、1586年、豊臣秀吉の九州征伐に元親・信親父子は参陣し、親茂もその配下として同行した。戸次川の戦いで軍監仙石秀久の作戦失敗により、島津勢に囲まれ、親茂は主君信親と共に奮戦するも討ち取られる。