戸次川の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)は、豊臣秀吉による九州平定の最中である天正14年12月12日(1587年1月20日)に、島津家久(島津義久の弟)率いる島津勢と長宗我部元親・長宗我部信親父子、仙石秀久、大友義統、十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。
目次 |
[編集] 概要
[編集] 合戦まで
1586年に入ると、九州制覇の野望に燃える島津勢はいよいよ宿敵・大友氏を滅ぼすべく、その領土への侵攻を開始した。耳川の戦いの大敗や立花道雪の死など悪条件が重なって、もはや独力で島津軍に挑む力も無かった大友宗麟は、当時の天下人であった豊臣秀吉に臣従することで援軍を求めた。秀吉も、いずれは九州平定を果たすことを想定していたため、これを好機とばかりに宗麟の要請を受け入れた。ただし、当時の秀吉は三河の徳川家康と敵対関係にあったため、大規模な援軍を送ることができず、そのためにひとまずの援軍として家臣の仙石秀久を軍監とした長宗我部・十河らの四国勢を豊後に派遣した。
一方の島津軍の勢いは凄まじく、大友領はたちまちのうちに島津勢によって侵食されていった。1586年12月初旬には大友氏の家臣・利光宗魚が守る鶴賀城(現在の大分市上戸次利光付近)が島津勢によっていよいよ包囲されたのである。この城は一度は島津勢に占領されたが、島津勢の兵力が薄くなった隙を宗魚に突かれて奪還されていたものである。宗魚は懸命に防戦し島津勢に3000余の大損害を与えたが、運悪く流れ弾に当たって戦死し、鶴賀城は落城の危機に立たされた。この城が落ちれば、大友氏の本拠である府内も危うくなる。鶴賀城からの救援を要請された義統は、豊臣勢の援軍を引き連れて鶴賀城を助けるはずだったが、自身の戦意は沈滞気味であった。
島津勢は1万余であったとも言われている。島津勢は豊後侵入時より半分近く兵力が減少していたが、大友を離反した勢力などを加えており、若干兵力が回復していたとも言われている。大友勢か豊臣勢が後詰でやってくるであろうと予測していた家久は、軍勢を右翼2000、主力3000(実際は倍の6000だが、半分は鶴賀城監視や伏兵にまわす)、左翼5000の三手に分けた。軍勢を三手に分けて合戦に挑む戦法は、俗に島津得意の「釣り野伏せ」と呼ばれているが、この場合は伏兵をあまり使わないパターンである。家久は分けた軍勢を、豊後国戸次川(大分市戸次付近の大野川の古称)と鶴賀城の間に並べ、しかも豊臣勢が渡河してくるであろう場所に待ち構えていた。家久自身は鶴賀城を見下ろす梨尾山に本陣を置いた。
豊臣勢は兵力2万とも言われていたが、義統が動かなかったこともあって、即座に使える兵力は半分以下だった。島津勢を蹴散らすためには、何としても義統率いる大友勢が必要だったが、秀吉の威を借り功を焦る軍監・秀久がほとんど独断的に鶴賀城救援のための出陣を決した。陣容は、秀久の淡路勢1000余、存保・尾藤知定が率いる讃岐勢3000余、長宗我部父子の土佐勢3000余の計6000余。
[編集] 合戦の経過
豊臣勢は秀吉の命で出陣しただけの寄せ集めで団結力が無かった。しかも、大友勢も道案内役の戸次統常率いるわずかな兵しかいないので島津勢より兵力が劣っていた。しかし、秀久は無謀な渡河作戦を決行することになった。12月12日早朝、戸次川を挟んで両軍が対峙した。夕刻になって最初に交戦したのは島津勢左翼の伊集院久宣と、淡路勢であった。戦況は、緒戦は家久が狼狽するほど豊臣勢が押し気味であったが、淡路勢が深入りしすぎたところに主力の新納大膳と右翼の本庄主悦が一斉に襲い掛かり淡路勢は潰滅、秀久はあっという間に遁走した。淡路勢を蹴散らした島津勢は勢いに乗って、淡路勢に続いて深入りしていた第2陣の讃岐勢・信親勢を包囲。さらにあらかじめ配置してあった伏兵も策動し、讃岐勢・信親勢も潰滅。信親・存保は戸次川の中で戦死してしまったという。元親の第3陣は合戦することもなく敗走した。
この大勝に乗じた島津勢は鶴賀城を落とし、翌13日には府内に侵入。義統はたまらず豊前に逃走し、島津勢は実質、豊後を平定した。
帰還後、仙石秀久は指揮官としての不手際を問われて一時改易処分を受けることとなった。
[編集] 参考文献
- 河合秀郎「戸次川の戦い」『歴史群像シリーズ【戦国】セレクション・烈帛 島津戦記』学習研究社、2001年
- 桐野作人「戸次川の大勝で大友軍を駆逐、九州制覇を目前とする」『歴史群像シリーズ【戦国】セレクション・烈帛 島津戦記』学習研究社、2001年