杉村陽太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
杉村陽太郎(すぎむらようたろう 1884年(明治17年)9月28日-1939年(昭和14年)3月24日)は、大正、昭和の外交官、IOC委員。
外交官杉村濬(すぎむらふかし)の長男として東京に生まれる。1908年(明治41年)に東京帝国大学法学部を卒業。外務省に入省。1923年(大正12年)駐フランス大使館一等書記官。
1933年(昭和8年)にIOC委員に選ばれ、1940年の東京オリンピックの招致に尽力した。1936年(昭和11年)7月にIOC委員を辞任。
駐イタリア大使を経て、1937年(昭和12年)4月に駐フランス大使を拝命。しかし、翌年1938年(昭和13年)1月に病気となり帰国、死去の際には日本の外交に貢献したこと多大であるとして外務省葬が執り行われた。
IOC委員を務めるなどスポーツ界に通じ、自身も古式泳法の水府流太田派の名手で大学時代には16キロの遠泳で優勝し賞金300円を得たこともある[1]。また、講道館に通い柔道6段となり嘉納治五郎の知遇を得た。フランス大使時代にはフランスでの柔道普及に協力したという。
三井合名会社理事の福島喜三次とは義兄弟。娘は元アルゼンチン大使青木盛夫に嫁ぎ、その子(孫)にペルー日本大使公邸占拠事件に遭遇した元駐ペルー大使の青木盛久がいる。
[編集] 脚注
- ^ 出典:1999年1月26日 朝日新聞朝刊