村上一郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文学 |
![]() |
ポータル |
各国の文学 記事総覧 |
出版社・文芸雑誌 文学賞 |
作家 |
詩人・小説家 その他作家 |
村上一郎(むらかみ いちろう、1920年9月24日 - 1975年3月29日)は、日本の文芸評論家、歌人、小説家。日本浪曼派。
東京生まれ。栃木県宇都宮市育ち。1943年東京商科大学(現一橋大学)卒業後、短期現役士官として、海軍に入隊。主計大尉として終戦を迎える。戦後は、吉本隆明、谷川雁らとともに雑誌『試行』の編集などをした。1975年、武蔵野市の自宅で日本刀により頸動脈を切り自殺。 三島由紀夫の壮絶な死が影響を与えていたことは、想像に難しくない。享年54。墓所は小平市の小平霊園。
『北一輝論』は三島由紀夫に高く評価された。二・二六事件を肯定する面では、三島由紀夫と同様か、またそれ以上である。が、三島由紀夫の二・二六事件観は、あくまで忠誠心の発露、至純の精神への感銘にすぎないが、村上一郎はその理念にまで、心を及ばせていた。二・二六事件の失敗、滅びを前提にする三島由紀夫と異なり、二・二六事件がもし成功したら、歴史は変わっていたと、肯定論を更に進めて考える。
死に際しては思想的立場が大きく異なる丸山眞男からも悔やみの手紙が寄せられた(『磁場』の臨時増刊村上一郎追悼特集号に掲載)。
内田信也(内田汽船設立者)や窪田四郎はおじ。石野信一(大蔵省事務次官や神戸銀行頭取を歴任)は従兄。
[編集] 三島由紀夫観
同じ天皇主義者であり、肝胆相照らしあう間柄ながら、三島由紀夫率いる楯の会がクーデターも革命も目指さず、防共に徹していることに歯がゆいものを感じていたようだ。