東条冬重
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東条 冬重(とうじょう ふゆしげ、生没年不詳)は江戸時代前期の旗本。忠臣蔵の敵役で有名な吉良上野介義央の弟の1人。通称は采女(うねめ)、大学(だいがく)、織部(おりべ)、作十郎(さくじゅうろう)。
高家旗本の吉良若狭守義冬(3000石)の五男として誕生。母は旗本酒井忠吉(酒井忠勝の実弟・7000石)の娘。生年は不詳だが、兄の吉良義央が寛永18年(1641年)の生まれなので、義叔が生まれたのはそれ以降。
三兄の東条義孝の養子となり、元禄元年(1688年)7月12日、義孝の家督切米300俵を継いで小普請に列した。元禄10年(1697年)3月18日には書院番士となるも、元禄14年(1701年)3月14日に長兄吉良義央が赤穂藩主浅野長矩に殿中刃傷を受け、その後、浅野長矩は切腹となるが、世間の赤穂びいきの空気を受けて幕府は、吉良義央を隠居させ、さらに8月21日には大目付の庄田下総守安利(浅野長矩は罪人であるとして庭先で切腹させた人物)・高家肝煎の大友近江守義孝(吉良義央腹心の部下)・そして義央の弟であるこの東条冬重を呼び出して、全員に対して「勤めがよくない」として解任を申し渡した。明らかに幕府から吉良勢力を締め出そうという企みであった。
その後、冬重が幕府の役職に復帰できることはなく、小普請のまま生涯を終えた。また子も養子もなかったので義孝流東条家は絶えてしまった。没年も不詳。