松岡正剛
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松岡正剛(まつおかせいごう、1944年1月25日 - )は、日本の編集者、著述家。京都府出身。東京都立九段高等学校、早稲田大学文学部フランス文学科中退。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、編集工学研究所所長、ISIS編集学校校長。
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[編集] 略歴・人物
京都の呉服屋に生まれる。高校の頃には上京、高校から大学にかけて、学生紛争の論客として鳴らす。一方で禅寺などをめぐり、様々な思索にふける。大学4年の時に父親が多額の借金を残して死去したため、やむなく大学を中退。広告会社に勤め、営業活動のかたわら、高校生向けのタブロイド版の新聞「the high school life」を創刊。寺山修司に「東京のヴィレッジボイス」と絶賛された。
1971年に3人で工作舎を設立し、雑誌『遊』(1971年-1982年)を創刊する。「オブジェマガジン」と称し、あらゆるジャンルを融合し超越した独自のスタイルは日本のアート・思想・メディア・デザインに多大な衝撃を与えた。松岡は編集長を務めつつ、雑誌そのものへの寄稿、対談出席なども行い、1979年には初の単独著書となる『自然学曼荼羅』を刊行する。
『遊』刊行中から、外部の各種プロジェクトにかかわり、1978年から翌年にかけては、ルーブル装飾美術館、ニューヨークのクーパー・ヒューイット美術館などで「MA:Space-Time in Japan」展のプロデュースを担当する。これは、ミシェル・フーコーなどが訪れ、各界に衝撃をあたえることになる。更に20年後の1998年にもう一度東京芸術大学で再編して開催される。
1982年に工作舎を退社し、松岡正剛事務所を設立して独自の活動を開始する。太古からの「情報」そのものを題材とした大作『情報の歴史』を編纂するために各ジャンルの知識人を集め、この本の監修を務める。これが発展し、1987年に株式会社編集工学研究所を設立することになる(現在、編集工学研究所は出版グループ・インプレスのグループ会社となっている)。
1997年からは、岐阜県で織部賞を開始、総合プロデューサーを担当し、ジャンルを問わずに内外の様々な人物を顕彰する。また、帝塚山学院大学に招聘され、教授としてゼミを担当した。
2000年2月から書評サイト「千夜千冊」の執筆を開始。同じ著者の本は2冊以上取り上げない、同じジャンルは続けない、最新の書物も取り上げる、などのルールを自らに課し、膨大な知識に裏打ちされた編集術を駆使し、時に自身のエピソードやリアルタイムな出来事も織り交ぜた文体は、日を追うにつれ話題を呼んだ。第一夜は中谷宇吉郎『雪』。2004年7月に良寛『良寛全集』で「千夜千冊」を達成。
しかしその直後に胃癌が発覚し、手術入院(その詳細は「千夜千冊」番外『退院報告と見舞御礼』に語られている)。しばらくの療養後、再び「千夜千冊」の執筆を開始し、2006年5月22日に柳田国男『海上の道』でもって「放埓篇」として完結した。この放埓篇・全1144夜に大幅な加筆と構成変更を行い、「松岡正剛 千夜千冊」として2006年10月に求龍堂より出版された。現在も「遊蕩篇」としてリニューアルされ、連載が続いている。
また、長年培ってきた編集的世界観に基づき確立した「編集工学」をもとに、2000年6月、世界初のインターネット上の学校「ISIS編集学校」を設立し、校長に就任。単なる文章術にとどまらない、プランニングからコーチングまでを幅広くカバーする「編集術」を伝授するという独特なスタイルが評判を呼ぶ。
この他には『極める』シリーズ(テレビ東京系列)などの教養番組の構成を務めていた。
[編集] 編集工学について
「生涯一編集者」をモットーとする松岡は、生涯を通じて各種編集、プロデュースにかかわる中で、「編集術」「編集工学」という独特の発想をつくり出す。これは、書籍編集にとどまらず、各種創作活動からサラリーマンの仕事術まで跨る、情報の表現や整理の方法そのものを扱う。
[編集] 主な著作
- 『タルホ事典 稲垣足穂』(潮出版社、1975)
- 『愛の傾向と対策』(タモリとの共著、工作舎、1980)
- 『空海の夢』(春秋社、1984, 2005)
- 『遊学』(大和書房、1986)
- 『ルナティックス』(筑摩書房、1993・斎藤緑雨賞)
- 『花鳥風月の科学』(淡交社、1994)
- 『フラジャイル』(筑摩書房、1995)
- 『知の編集工学』(朝日新聞社、1996)
- 『日本流』(朝日新聞社、2000)
- 『日本数寄』(春秋社、2000)
- 『日本という方法』(NHK出版、2006)
- 『松岡正剛 千夜千冊』(求龍堂、2006)
ほか多数