松平信将
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松平 信将(まつだいら のぶまさ)は、江戸時代の大名。出羽上山藩の第3代藩主。藤井松平家嫡流8代。
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時代 | 江戸時代中期 | |||
生誕 | 享保2年(1717年) | |||
死没 | 宝暦11年11月14日(1761年12月9日) | |||
別名 | 冬松(幼名)、左門(通称)、直隆(初名) | |||
戒名 | 清安院殿順誉和光鳳瑞大居士 | |||
墓所 | 東京都港区高輪の松光寺 | |||
官位 | 従五位下、安房守、山城守 | |||
藩 | 出羽上山藩主 | |||
氏族 | 松平氏 | |||
父母 | 父:松平忠隆、母:鈴木氏 養父:松平長恒 |
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妻 | 正室:戸田氏長の娘 継室:越前松平宣富の娘 |
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子 | 松平信亨(長男)、松平忠融(次男)、 久米、政、養女(四辻公亨室) |
享保2年(1717年)、信濃上田藩主で藤井松平家支流・松平伊賀守忠昭の五男・忠隆の子として上田で生まれる。享保17年(1732年)8月9日に上山藩2代藩主・松平長恒の養嗣子となると、初名・直隆から信将に改名した。同年12月12日に長恒が隠居したため、家督を継いで第3代藩主となった。12月28日に従五位下、安房守に叙位・任官される。
外桜田門番、大坂城加番など諸役を歴任したが、そのために藩財政が窮乏し、延享元年(1744年)や延享2年(1745年)の凶作で米価高騰が起こり、延享4年(1747年)5月には百姓一揆・打ちこわしが発生して百姓側の年貢減免要求などを受け入れることとなった。宝暦7年(1757年)には洪水による被害で、幕府より3,000両を借用している。
宝暦11年(1761年)に5度目の大坂城加番に任じられて大坂に赴いたが、間もなく発病して大坂で死去。享年45。後を長男・信亨が継いだ。
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