松平信通
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松平 信通(まつだいら のぶみち)は、江戸時代の大名。大和興留藩主、のちに藤井松平家嫡流の家督を継ぎ備中庭瀬藩主、出羽上山藩の初代藩主。藤井松平家嫡流6代。
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時代 | 江戸時代前期 | |||
生誕 | 延宝4年9月24日(1676年10月31日) | |||
死没 | 享保7年9月22日(1722年10月31日) | |||
別名 | 次郎四郎(通称) | |||
戒名 | 涼応院殿咸誉道義大居士 | |||
墓所 | 東京都港区高輪の松光寺 | |||
官位 | 従五位下、中務少輔、山城守、 大隅守、越中守 |
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藩 | 大和興留藩主→備中庭瀬藩主→出羽上山藩主 | |||
氏族 | 松平氏 | |||
父母 | 父:松平信之、母:小出吉英の娘 | |||
兄弟 | 松平忠之、松平信通 | |||
妻 | 正室:板倉重常の娘 側室:熊谷氏、宮崎氏 |
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子 | 次郎四郎、松平長恒(次男) |
延宝4年(1676年)9月24日、老中の松平信之(下総古河藩主)の次男として生まれる。父の死後、本家の家督は長兄の松平忠之が継いだが、このとき父の所領9万石から1万石を分与されて、大和興留藩主となった。
しかし元禄6年(1693年)に兄の忠之が発狂したとして改易されたため、兄の身柄を預かって、なおかつ幕命により松平本家の家督を相続することとなった。そして2万石加増の3万石で備中庭瀬藩に加増移封となった。元禄7年(1694年)12月28日、従五位下、中務少輔に叙位・任官される。
元禄10年(1697年)9月15日、出羽上山藩に移封される。しかし上山城修築、大坂城番、和田倉門番、駿府城加番などの諸役で藩財政が困窮したため、家臣のリストラを行なっている。宝永4年(1707年)2月23日、山城守に遷任し、正徳4年(1714年)9月に大隅守に遷任する。正徳5年(1715年)4月には越中守に遷任した。
享保7年(1722年)、大坂加番に任じられて大坂に赴いていたが、まもなく病に倒れ、9月22日(異説として9月20日)に死去した。享年47。後を次男・長恒が継いだ。
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