古河藩
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古河藩(こがはん)は、下総国(現在の茨城県古河市)に存在した藩の一つ。藩庁は古河城。
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[編集] 戦国時代
戦国時代、古河城は鎌倉公方・足利持氏の遺児・足利成氏が康正元年(1455年)に古河公方となってから、公方の居城となった。しかし古河公方は成氏の死後、その座をめぐって内紛が起こり、小弓公方家と分裂して内紛を起こし、さらには関東管領の山内上杉氏とも対立してしまったうえ、関東征服に燃える北条氏綱、北条氏康らの登場もあって、次第に衰退する。そしてやがて、古河公方は後北条氏の傀儡にまで成り下がり、最後の古河公方・足利義氏の死と共に古河城は北条氏の属城となったのである。
[編集] 藩史
1590年、豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅ぶと、その後に関東に入封した徳川家康は、小笠原秀政を3万石で入れた(ただし、古河城は豊臣秀吉によって一旦破却されていたために再建までの間は栗橋城(現在の茨城県五霞町及び埼玉県栗橋町)を居城としていた)。関ヶ原の戦い後、秀政は信濃国飯田へ移封され、代わって上野国白井より松平(戸田)康長が2万石で入ったが、常陸国笠間へ移封。武蔵国本庄より小笠原信之がその後を受けて入ったが、子の小笠原政信のとき、下総国関宿へ移封。代わって下野国宇都宮より奥平忠昌が入るが、宇都宮城釣天井事件によって忠昌は再び宇都宮に戻され、常陸国笠間より永井直勝が入る。しかし子の永井尚政のとき、山城国淀へ移封。そして下総国佐倉より、徳川秀忠・徳川家光に仕えた老中の一人で有名な土井利勝が16万石で入るが、孫の土井利益のとき、志摩国鳥羽へ移封(本来ならば無嗣断絶のところであったが、利勝の功績などから許されて、存続したのである)。
代わって徳川綱吉時代の大老・堀田正俊が上野国安中より9万石で入るが、子の堀田正仲のとき、出羽国山形へ移封。大和国郡山より松平(藤井)信之が入るが、子の松平忠之が発狂して改易される。その後、綱吉の側近であった松平信輝が入るが、子の松平信祝の時、三河国吉田へ移封。三河国刈谷より本多忠良が入るが、次男の本多忠敝のとき、石見国浜田へ移封。入れ替わりで、浜田より松平康福が入るが、三河国岡崎へ移封。このように、古河藩は藩主家の交替が激しく、どれも長続きせず、支配が定着しなかった。
そして、肥前国唐津より土井利里が入ることで、ようやく土井氏による支配が定着し、以後、土井氏が7代にわたって支配して、明治時代を迎えた。古河歴史博物館には、古河藩の歴代藩主を伝える様々な展示物が今も保存されている。
[編集] 歴代藩主
[編集] 小笠原家
3万石(譜代)
[編集] 松平(戸田)家
2万石(譜代)
[編集] 小笠原(酒井)家
2万石(譜代)
[編集] 奥平家
11万石(譜代)
[編集] 永井家
7万2000石(譜代)
[編集] 土井家
16万石→13万5000石→10万石(譜代)
- 土井利勝(としかつ)従四位下。大炊頭。侍従。土井利昌の長男(徳川家康の落胤?)。
- 土井利隆(としたか)従五位下。遠江守。土井利勝の長男。
- 土井利重(とししげ)従五位下。大炊頭。土井利隆の長男。
- 土井利久(としひさ)なし。土井利隆の三男。
- 土井利益(とします)従五位下。周防守。土井利隆の次男。
[編集] 堀田家
9万石(譜代)
[編集] 松平(藤井)家
9万石(譜代)
[編集] 松平(大河内)家
7万石(譜代)
[編集] 本多家
5万石(譜代)
[編集] 松平(松井)家
5万石(譜代)
- 松平康福(やすよし)従四位下。周防守。侍従。松平康豊の長男。
[編集] 土井家
7万石→8万石(譜代)
- 土井利里(としさと)従四位下。大炊頭。侍従・分家・土井利清の次男。
- 土井利見(としあきら)従五位下。美濃守。三河西尾藩主・松平乗佑の子。
- 土井利厚(としあつ)従四位下。大炊頭。侍従。摂津尼崎藩主・松平忠名の四男。
- 土井利位(としつら)従四位下。大炊頭。侍従。分家・三河刈谷藩主・土井利徳の四男。
- 土井利亨(としなお)従五位下。大炊頭。
- 土井利則(としのり)従五位下。大炊頭。
- 土井利与(としとも)従五位下。大炊頭。土井利則の長男。