柳亭左楽
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柳亭左楽(りゅうてい さらく)は江戸後期から続く落語家の名跡の一つ。6代を数える。 この名跡は古くは猩々亭左楽で猩々とは中国の伝説上の動物の事で酒は左を楽しむという。 つまり右手で注いで左手で受け、それを呑んで楽しむと言う事から左楽となった。
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[編集] 初代
初代三笑亭可楽の門人に「佐楽」がいたらしく 最初は語笑楽清我といい古渡り語助、改めて三笑亭佐楽となった。
[編集] 2代目
最初3代目司馬龍生の門に入り龍我といった。1850年ごろ龍生が没ししたで兄弟子が龍生を継いだ自身は初代林屋正蔵の娘のみいの養子となって3代目林屋正蔵を継いだ。林屋一門とまったく関係ない人物が正蔵を継いだため林屋一門から妬んだ。正蔵のお家芸怪談噺もよく演じ人気を得る。1857年には2代目左龍襲名した。襲名してからは滑稽噺をよく演じた。
俗に「歯抜けの左楽」「歯っかけの左楽」
[編集] 3代目
本名高山長三郎(1856年 - 1889年12月4日)。2代目の弟子。天才と呼ばれたが夭折。 最初は2代目の門で柳亭左市、1873年から1874年頃の十代の若さで3代目襲名。父は2代目鼠遊亭鉄扇。中村秀五郎、中村鶴若、2代目富士松ぎん蝶は兄弟。
俗に「左市左楽」。
[編集] 4代目
本名福田太郎吉(1856年1月2日 - 1911年11月4日)。ネタ数は少なかったが滑稽噺をよくした。 最初は初代談洲楼燕枝の門で燕多、その後3代目春風亭柳枝の門で路喬、後に初代柳家枝太郎、1884年に真打昇進、1893年12月に4代目襲名。1904年から1907年まで柳派の頭取を務める。
俗に「オットセイの左楽」。
門下に5代目左楽、柳亭左若、4代目柳家枝太郎、5代目雷門助六等。
[編集] 5代目
本名は中山千太郎(なかやま せんたろう 1872年3月5日 - 1953年3月25日)。1888年春風亭柳勢に入門して勢太郎。1895年に柳亭春楽、翌年講談の伊藤痴遊のもとで春風舎痴楽、4代目の元で2代目柳家枝太郎、1899年に4代目柳亭芝楽、日露戦争の体験を高座で語り人気を博す、1911年に5代目を襲名。1927年「睦会」会長。芸よりも政治力と人望の篤さをもって、落語界に重きをなした。引退披露直前に没したが、その葬儀の盛会ぶりは今に語り草となっている。 門下には8代目桂文楽、8代目三笑亭可楽や、4代目柳亭痴楽らがいる。
[編集] 6代目
当代。本名は原田昌明(はらだ まさあき 1936年12月14日 - )。広島県竹原市出身。落語協会所属。出囃子は「毛谷村の物着」、紋は「かたばみ」。1957年 8代目桂文楽に入門して「文平」。1961年二つ目。1973年真打昇進。2001年6代目左楽を襲名。
[編集] 出典
- 諸芸懇話会、大阪芸能懇話会共編『古今東西落語家事典』平凡社、ISBN 458212612X