柳沢信鴻
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柳沢 信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の郡山藩主。
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生誕 | 享保9年10月29日(1724年12月14日) | |||
死没 | 寛政4年3月3日(1792年4月23日) | |||
別名 | 久菊、義稠、信卿、伊信 | |||
諡号 | 米翁、春来、香山、月村、蘇明山、 紫子庵、伯鸞 |
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戒名 | 即仏心院無誉祐阿香山大居士 | |||
藩 | 大和郡山藩主 | |||
父母 | 父:柳沢吉里、母:森氏 | |||
兄弟 | 柳沢信睦、柳沢信鴻、柳沢信昌 | |||
妻 | 正室:伊達村年の娘 継室:真田幸弘の娘 |
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子 | 柳沢保光、柳沢信復、武田信明、 柳沢里之、娘(米倉昌賢室)、 娘(阿部正倫室) |
[編集] 信鴻の日記
隠居後に祖父・吉保の築いた江戸六義園に居住した。亡くなる間際まで『園遊日記』・『松鶴日記』と呼ばれる日記を毎日欠かさず書き残した。天明・寛政期の政治社会状況が克明に記されているだけでなく毎日の江戸(南関東)の天候が記されている事から、近年では天明の大飢饉の原因となった天候不順の実態解明にも役立てられている。
[編集] 年譜
- 1724年(享保9年):吉里の四男として生まれる
- 1737年(元文2年):将軍初見
- 1738年(元文3年):帝鑑間詰
- 1745年(延享2年):吉里死去、柳沢家相続
- 1773年(安永2年):隠居(10月3日)、六義園で隠居生活を送る
- 1785年(天明5年):出家
- 1792年(寛政4年):死去、享年69
[編集] 官位位階
墓所:正覚山月桂寺(東京都新宿区)
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