米倉昌賢
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米倉 昌賢(よねくら まさかた、宝暦9年6月27日(1759年7月21日) - 寛政10年6月23日(1798年8月5日))は、日本の江戸時代の大名。武蔵金沢藩の第4代藩主。
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時代 | 江戸時代中期から後期 | |||
生誕 | 宝暦9年6月27日(1759年7月21日) | |||
死没 | 寛政10年6月23日(1798年8月5日) | |||
別名 | 総五郎、長之助(幼名) | |||
戒名 | 法山道輪高運院 | |||
官位 | 従五位下、長門守 | |||
藩 | 武蔵金沢藩主 | |||
氏族 | 米倉氏 | |||
父母 | 父:米倉昌晴、母:田中氏 | |||
妻 | 正室:柳沢信鴻の娘・心珠院 | |||
子 | 2女(長女:清凛院(米倉昌由室)、 次女:(米倉昌胤室)、養子:米倉昌由) |
宝暦9年(1759年)6月27日、第3代藩主・昌晴の次男として生まれる。安永6年(1777年)12月に叙任し、天明5年(1785年)12月に父が死去したため、翌年に家督を継いで藩主となる。天明7年(1787年)2月に大坂加番、寛政元年(1789年)2月に半蔵門番、7月に大番頭となるが、寛政5年(1793年)に病を理由に辞任し、寛政10年(1798年)6月23日に死去。享年40。
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