根性論
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根性論(こんじょうろん)とは、苦難に屈しない精神=根性があれば、如何なる問題も解決できる・または如何なる目標にも到達できるとする精神論の一つである。しばしば論理的な根拠を欠くために実質的な効果の出ないスポーツの練習行為を揶揄する意図でこのように表現する事もある。近年では、軍国主義の精神論に近い人間の尊厳を軽んじる思想、事故や突然死を起こす考えだとして退潮傾向にある。
[編集] 概要
根性論は古くより、スポーツの選手や挫折した人を励まし奮い立たせるために用いられてきた。
これらに共通する基盤となるのは、努力すれば必ず報われるという経験則である。(苦しい思いをして鍛錬を続ければ、持てなかった重い荷物が持てるようになり、更に速く走れるようになり、解けなかった問題に正解できるようになり、意味が解らなかった文章や本もきっと読めるようになる、等)
これらは全て、苦労に挫折せず、更なる向上を目指した結果、与えられる特典であり、それの利益を得るためには、努力するしかない。努力を続けるために必要なのは根性であり、何事にもめげない精神力こそが必ず人を成功へと導く、といった、古くから人々(選手たち)を叱咤激励してきた思考法である。
こうした考え方は必ずしも全てが否定されるべきものではない。何事によらずメンタルな面が結果を左右する部分は大きく、試合において「根性」「絶対に勝つんだという気持ち」などの精神的な要素がその勝敗に少なからず影響することもまた事実である。
海外の一流アスリートたちはメディア向けの発言で「競技を楽しむ気持ちが大切」などと話すことが多く、彼らの言葉を表面だけでとらえたメディアが旧来の根性論を一方的に否定している論調も少なくない。しかしその場合の「楽しむ」とは一般的な概念のそれとは全く比較にならない高次元でのものであり、彼らは舞台裏では想像を絶する過酷なトレーニングを繰り返し、かつ強いプレッシャーの中で激しい闘争心をもって競技に臨むがゆえに高い結果を残しているのである。
だが時々、誤った方向で努力してしまう人が居る。例えば「腹筋を鍛えていけば、銃で撃たれても重量物を満載した自動車に轢かれても耐えられる」という類いの物である。これらの結果は得てして悲劇的なものとなる(悪意のある人にとっては、喜劇的なのかもしれない)が、これは何も特殊な妄想の結末ではない場合がある。
古くからスポーツの鍛錬において、これら根性論は広く信奉されていたが、中にはやはり間違った方向性に邁進するケースもあり、辛い練習は良い結果に繋がるとして、辛ければ辛い方がいいと、医学的・科学的判断から逸脱し健康を害する方向で辛い行為を行ってしまう場合がある。例えば、炎天下で水を飲まずに練習を続けて熱射病で倒れたり、関節や筋を傷めていたり、風邪を引いているのに寒い屋外で練習を続行して、体調を余計に悪くする・筋肉に回復不可能な障害が残ってしまうケースである。殊に筋肉痛は筋繊維の回復反応に伴うもので、痛みがある時は患部を普通以上に動かすべきではない。
中には軍隊の影響を受けたものが少なくない。例として、「スポーツ時は水分を摂ってはいけない」という考えが1980年代頃まで学校教育運動(体育・部活動など)で大勢を占めていた。これは
- 「第二次大戦中に東南アジアで日本軍が長距離行軍時に、喉の渇きに耐えられず、何が入っているかわからない井戸水を飲んで、腹を壊した」
- 「長距離行軍に際し後先を考えず水筒の水を飲み干してしまい、後半以降脱水症状に陥り倒れた」
- 「運動時に水を飲むと早く疲れる(と、当時言われていた)」
ことなどが由来である。戦場ならともかく、平時のスポーツでは全く意味の無い注意であり、全く合理性を欠いた指導というほか無い。運動中は水分摂取が必要であるとする医学的見解が長らく示されなかったことがこうした指導を続けさせた最大要因であるが、苦痛に耐えることが進歩をもたらす、といった極端な思考も要因の一つとは言えるであろう。
当人が好き好んでそのような自虐趣味に徹する分には自己責任であり、その結果も当人の自由ではあるが、特に学校教育活動の場などで、このような偏った根性論を振りかざす責任者がいた場合は悲劇的な結果になる場合もある。1960年代から1980年代に掛けては、医学的知識も根拠も無く、加虐行為を繰り返す監督責任者によってしばしば健康被害を訴える人が続出し、管理責任を問う裁判が起こされるなどの社会問題も発生している。メンタルな部分での鼓舞や強化はあくまでフィジカル面、テクニック等他の要素の正しい向上と一体となって初めてその効果を発揮するものであろう。