桂昌院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
桂昌院(けいしょういん、1627年(寛永元年) - 1705年8月11日(宝永2年6月22日))は、江戸時代の幕府3代将軍徳川家光の側室である。徳川実紀に拠れば、父は八百屋仁左衛門(養父は本庄宗利)、母は鍋田氏の娘。子に5代将軍となる徳川綱吉。名はお玉。
[編集] 生涯
京都の紫野・大徳寺付近で産まれる。若い頃は町人たち誰もが、目を奪われる程の美人だったらしい。後に母が関白二条光平の家司である本庄資俊と再婚した為、資俊の養女となる。1639年(寛永16年)に御小姓として家光の側室のお万の方に仕え、その際に春日局の部屋子として家光に見初められ、家光の側室となる。1646年(正保3年)に綱吉を産み、1651年(慶安4年)に家光が死ぬと落飾して大奥を離れ、筑波山知足院に入る。4代将軍徳川家綱の死後、1680年(延宝8年)に綱吉が将軍職に就くと江戸城三の丸へ入り、権勢を振るう。男子の生まれない綱吉に対し、帰依していた亮賢に僧の隆光を紹介され、生類憐みの令発令に関わったとされる。ちなみに綱吉の正室の鷹司信子とは仲が悪かったらしい。 応仁の乱で一部が消失した京都の善峯寺の再興に尽力している。
1702年には女性最高位の従一位の官位を賜り、藤原宗子という名前も賜った。1705年に79歳で没する。
墓所は東京都港区の増上寺。京都府京都市西京区の善峯寺にも桂昌院の碑がある。
しばしば「玉の輿」の語源とされるが、俗説に過ぎないようである。
京都の今宮神社の名物(あぶり餅)は、玉の様な餅を食べ、お玉の様なご利益をあやかろうという言い伝えがある。 大徳寺・塔頭 総見院 では、『玉の輿』の玉とは、桂昌院の事と語り伝えていた。