桑山貞晴
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桑山 貞晴(くわやま さだはる、永禄3年(1560年) - 寛永9年7月7日(1632年8月22日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。茶人。和歌山城代、桑山重晴の三男で、桑山元晴の弟に当たる。官位は従五位下。左近大夫。号は洞雲。
はじめ豊臣秀長に仕え、大和国内に2500石を与えられていた。秀長死後は豊臣秀吉、次いで徳川氏に仕えた。武将というより茶人として優れており、千利休の息子である千道安から茶の湯について学び、利休の茶風を後世に伝える役目を果たした。ちなみに片桐石州は貞晴の門下生である。
1632年7月7日に死去。享年73。法号:宗仙。墓所:鎌倉の建長寺の天源庵。
桑山 貞晴(くわやま さだはる、慶長9年(1604年) - 寛永6年9月29日(1629年11月14日))は、大和御所藩の第2代藩主。初代藩主・桑山元晴の次男で、桑山清晴の弟。上記の同姓同名の貞晴の甥に当たる。
1620年、父の死去により後を継いで藩主となる。しかし1629年に継嗣のないまま死去した。貞晴は弟の桑山栄晴を末期養子として継がせようとしたが認められず、ここに御所藩は廃藩、その所領は天領となった。
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