和歌山城
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和歌山城大天守 | |
通称 |
虎伏城、竹垣城 |
城郭構造 |
梯郭式平山城 |
天守構造 |
連立式層塔型3重3階 |
築城主 |
豊臣秀長 |
築城年 |
1585年 |
主な改修者 |
浅野幸長、徳川頼宣 |
主な城主 |
豊臣氏、浅野氏、徳川氏 |
廃城年 |
1871年 |
遺構 |
現存門・塀、庭園、石垣 |
位置 |
和歌山城(わかやまじょう)は日本の城。所在地は和歌山県和歌山市一番丁。徳川御三家の一つ紀州藩紀州徳川家の居城であり、8代将軍徳川吉宗・14代将軍徳川家茂を輩出した。国指定史跡。かつては国宝の白亜天守が現在世界遺産の姫路城についで国宝に指定されていたが、戦災で焼失。和歌山城は見る角度によって趣が変化するなど面白みのある城である。
目次 |
[編集] 概要
和歌山城は和歌山市の中心部に位置する、梯郭式平山城である。虎伏山(とらふすやま)に建造され、北部を流れる紀の川を天然の堀とする。本丸の北側に二の丸が配され、その外に大きく三の丸が配された。
天守は大天守と小天守が連なった連立式である。姫路城、松山城と並んで日本三大連立式平山城の一つに数えられている。
御三家の居城に相応しい大規模な城郭(城の北側から見た図)であったが、現存しているのは最盛期の4分の1ほどの面積である。現在、かつて城内であった場所(主に三の丸等)には市役所や裁判所をはじめ公的機関や学校、商業施設、オフィス街などが立地している。非常に巨大な城であるが、計画では更に大規模な城構えになる予定であった。本来は5層の大天守・総構えが計画されていたが、余りにも規模が大きすぎたため幕府から嫌疑をかけられ中止させられてしまったと言うエピソードもある(その名残で市内には“堀止”の地名が残る)。しかしながら、前述の通り築城が途中で中止されたと言えども、それでも十分すぎる大城郭である。また、巨大すぎる城内では数度の火災にも悩まされたが、その度に再建された。
その他、特徴としては時代によって異なる石垣の積み方などがある。また城内では石垣が多用されており、非常に重厚な造りとなっている。それに、豊臣・浅野時代の石垣には刻印された石垣石がある。模様は約170種類、2100個以上の石に確認されているが、その大半が和泉砂石である。 現在は本丸と二の丸が和歌山城公園となっている。本丸南西部に和歌山県護国神社がある。また、公園周辺には県庁、市役所、裁判所、県立美術館・博物館など和歌山県の中枢を担う施設がある。遺構として石垣、堀をはじめ、公園内には岡口門と土塀、追廻門が現存し、岡口門と土塀は国の重要文化財に指定され、二の丸にある大楠は県指定特別天然記念物に指定されている。また、大小天守群とそれに続く櫓・門、大手門・一之橋が復元されている。
[編集] 沿革
豊臣秀吉の唯一の弟、秀長は天正13年(1585年)紀州攻めの副将として参陣し、平定後に紀伊・和泉の二カ国を加増された。当時は若山と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じ、自ら虎伏山を城地に選定し縄張りを行った。普請奉行に築城の名手・藤堂高虎を命じ、補佐役に羽田一庵を任じて僅か1年で完成させた。
翌、天正14年(1586年)桑山重晴に3万石を与え城代に据えた。重晴は本丸を中心に手直しを行った。文禄5年(1596年)重晴死去に伴い孫の一晴が城代を嗣いだ。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、軍功により浅野幸長が37万石を与えられ紀州藩主となり入城した。なお、同じく東軍に属した桑山一晴は大和国新庄藩に転封となった。幸長も引き続き城の改修を行っている。
元和5年(1619年)浅野氏は改易となった福島正則の後、広島藩に加増転封となった。代わって徳川家康の十男・頼宣が55万5千石で入城し、御三家の紀州徳川家が成立した。頼宣は兄の2代将軍徳川秀忠より銀5千貫を受領し、これを元手に元和7年(1621年)より城の大改修と城下町の拡張を開始した。しかし、この大改修が余りにも大規模であったため幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどであった。
明暦元年(1655年)11月、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火。西の丸・二の丸に延焼した。文化10年(1813年)には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼した。 弘化2年(1846年)7月に雷雨があり、天守に落雷。大小天守など御殿を除く本丸の主要建造物が全焼した。当時の法度では天守再建は禁止されていたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、嘉永2年(1850年)大小天守等が再建された。
明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築された。中でも二の丸御殿は明治18年(1885年)大阪城に移築され、昭和6年(1931年)より大阪市迎賓館として使用されていたが、昭和22年(1947年)失火により焼失した。本丸、二の丸一帯は明治34年(1901年)和歌山城公園として一般開放された。
昭和6年(1931年)に国の史跡に指定され、昭和10年(1935年)には、天守群が国宝に指定された。しかし、昭和20年(1945年)7月9日のアメリカ軍による大規模な戦略爆撃(和歌山大空襲)により天守などを焼失した。
昭和32年(1957年)岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定された。翌、昭和33年(1958年)天守群が鉄筋コンクリートにより再建された。
昭和58年(1983年)、明治42年(1909年)に老朽化し崩壊した大手門と一之橋が復元された。
平成18年(2006年)4月には、二の丸と西の丸を結んでいたとされる御橋廊下の復元を完了した。
平成18年度、二の丸整備を行うため御橋廊下は、西の丸からのみの折り返し通行である。
[編集] 西之丸庭園
紅葉渓とも呼ばれる江戸時代初期に西之丸御殿とともに造られた日本庭園。城の北西麓という地形を活かし、二段の滝を設けられている。現存する江戸時代初期の大名庭園として歴史的文化的価値が高く、国の名勝に指定されている。
[編集] 交通アクセス
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 史跡和歌山城(和歌山市公式サイト)
- 和歌山城管理事務所(和歌山市公式サイト)
- 和歌山城(和歌の浦観光協会・和歌の浦観光旅館組合)
- 和歌山城にいらっしゃい(和歌山大学教育学部附属小学校~4C和歌山城全国PR隊~)
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