森恒夫
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森恒夫(もり つねお、1944年 - 1973年1月1日)は、連合赤軍中央委員会委員長。
[編集] 経歴
高校は大阪府立北野高校出身で剣道の達人であったという。特に兄弟校の大阪府立大手前高校との対抗戦においては向かうところ敵無しだったという。東大全共闘の大手前高校出身の山本義隆とはライバル高校となる。ちなみに、父は大阪市交通局に勤務していた路面電車(大阪市電)の運転士。
大阪市立大学在学中に学生運動に飛び込み、共産主義者同盟関西派から赤軍派に加わる。1969年から1970年にかけて、最高幹部を含む多くのメンバーが逮捕されあるいは海外の「国際根拠地」に移動すると、森は国内に残っている獄外メンバーの事実上のリーダーとなり、金融機関強盗などを指揮した。1971年より京浜安保共闘との連携を指導し、やがて統一組織連合赤軍を結成した。
山岳アジトを転々とする中で、独裁体制を固め、同志殺害を指揮した。1972年2月17日、副委員長の永田洋子とともに一度下山した後活動資金を持ってキャンプに戻ろうとしたところを、揃って逮捕された。
1973年元日、拘置所の独房で首吊り自殺しているところを発見された。
(※ 発見された遺書には「自己の責任の重さに絶望」と綴られていた。)
[編集] 死後の評価
葬儀は三日後に駒込のキリスト教会で行なわれた。葬儀には赤軍派関係者、救援運動家などが参加したが、赤軍派創設時の指導者らが生前に拘置所へ面会に行かなかったことなどに対し、救援関係者が彼等に抗議する場面などもあり、森=連合赤軍への評価をめぐる混乱が浮き彫りにされた。
[編集] 逸話
森の死の当日、当時の人気歌謡番組だった「夜のヒットスタジオ」元日特番生放送の本番最中に、(当時は日本共産党支持者であることを公にしていなかった)司会の前田武彦が、森の死を罵詈雑言混じりに伝えるというハプニングがあった。