赤軍派
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共産主義者同盟赤軍派(きょうさんしゅぎしゃどうめい・せきぐんは)は、日本の新左翼党派。
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[編集] 革命軍の提起
1970年安保闘争を目前にした共産主義者同盟の最左翼。1969年、革命には軍事が不可欠であり、革命は「革命戦争」により勝ち取られるという立場から、軍(赤軍)の創設を主張。母体は、通称「関西ブント」と呼ばれる、一時期、共産主義者同盟(ブント)の全国指導権を掌握した関西地区のブント(ブント版の「関西復権」と揶揄された)である。同じく武装闘争を主張し、軍事部門として共産主義突撃隊の形成を主張する共産主義者同盟主流派の戦旗派と対立し、さらに赤軍派の軍事主義を批判する共産主義者同盟の最右翼の叛旗派や情況派とも対立。
1969年の日比谷野外音楽堂で開催された、全国全共闘結成集会に「蜂起貫徹、戦争勝利」のときの声とともに、公然と大衆の前に姿を現した。
[編集] 世界革命戦争
赤軍派の主要理論は、日本における革命により、世界革命の司令部としての党と軍隊を形成し、世界革命の最高司令部である革命日本と、革命の敵の総本山である帝国アメリカとの間で、「環太平洋革命戦争」を遂行するというものであるが、石原莞爾の「世界最終戦論」の影響があるとされる。「M(マフィア)作戦」(金融機関強盗による資金奪取)、「P(ペガサス)作戦」(人質をとって要求を行う))、「B(ブロンコ)作戦」(海外活動拠点の獲得)などの計画があった。
1969年に、大阪、東京で一連の交番襲撃を「大阪戦争」「東京戦争」と称して行う。首相官邸襲撃を行う予定であったが大菩薩峠での訓練を急襲され未遂に終わる。また、1970年2月22日の千葉県市原市辰巳台郵便局を皮切りに「M作戦」を実行し始めていた。
[編集] 前段階武装蜂起と国際根拠地
革命に先行する武装蜂起と一時的な政権掌握という「赤軍版二・二六事件」とも形容出来る「前段階武装蜂起」の理論に基づく大菩薩峠方面での軍事訓練を警察に察知され、予定されていた「第三中隊」「第七中隊」その他の決起部隊が一網打尽となる(大菩薩峠事件)。国内での非合法闘争の後方基地としての海外のベースが必要であるとする海外亡命抗戦論とでも言うべき「国際根拠地論」に基づき、「B作戦」の一環として、田宮高麿のグループはよど号ハイジャックを行った(よど号事件、1970年)。北朝鮮へ向ったのは北朝鮮を支持していたわけでもなく、単に「敵の敵」であり「最寄の反米国家」だったからにすぎないといわれる。
一連の事件により、結成以来の議長の塩見孝也をはじめとする最高幹部や中央指導部は一網打尽となり(塩見の逮捕は1970年3月15日。)、組織は壊滅に近い状態になった。
[編集] 海外亡命としての日本赤軍
やはり国際根拠地論に基づきパレスティナに向った重信房子のグループは当初赤軍派アラブ委員会(アラブ赤軍)を称し、パレスティナ解放人民戦線(PFLP)と合流して活動を開始し、一連のハイジャックなど、「P作戦」の国際的展開とでも言うべき活動を行い、「日本赤軍」として独立する。
[編集] 国内残党としての連合赤軍
一方、国内に残った赤軍派の残党は、それまでの指導部がすべて獄中にあるため独自の動きが困難になっていたが、「M作戦」の指揮をとっていた中堅の森恒夫が獄外メンバーの指導的地位を掌握する。赤軍派とは本来、基本的にイデオロギー上にかなり違いがあり、「銃のみが政権を生み出す」をスローガンに武装闘争を行っていた毛沢東主義の小党派である日本共産党神奈川県常任委員会革命左派=京浜安保共闘との提携を始めた。当初は、革命左派(京浜安保)が以前に武器奪取を目的に交番を襲撃した際に射殺された活動家の追悼集会を合同で開いたり、革命左派(京浜安保)が銃砲店から強奪した武器を「購入」してM作戦に使うなど、あくまで別の組織としての提携活動であった(元々「連合赤軍」とは、両党派の“軍事部門”のみの連合体を指す名称であった)が、1971年12月、遂に両組織主流派幹部は統合し、連合赤軍中央委員会を名のった。
前身が共に追われる身の武闘派から成る連合赤軍は、活動拠点を山中のキャンプに移していった。しかし同志殺害の果てのあさま山荘事件(1972年)で、主力部隊は壊滅した。なお、キャンプに参加しなかった者や獄中に在った者の一部は国外に逃れ、日本赤軍に参加してゆくことになる。
[編集] 赤軍派系運動の理解のために
同じ「赤軍」という名称のため、しばしば混同されるが、「共産主義者同盟赤軍派」「日本赤軍」「連合赤軍」は、系列的だが、組織的・時間的には別個のもの、別組織であり、きちんと区別して理解しないと、彼らの行状も正確には把握出来ないだろう。