武田信勝
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武田信勝(たけだ のぶかつ、永禄10年(1567年) - 天正10年3月11日(1582年4月3日))は、安土桃山時代の武将で、武田勝頼の嫡男。
信濃の生まれ。1582年織田信長の侵攻により、武田氏本拠の新府城に織田軍が迫ると、新府城での徹底抗戦を主張したが、受け入れられず、父・勝頼と共に郡内地方の小山田信茂を頼り避難することを決める。しかし信茂の裏切りにより、進退窮まった勝頼・信勝一行は日川沿いに進んだが、天目山の戦いにて敗れ、父・義母の桂林院と共に自害する。享年16。
なお自刃する前には、家臣土屋昌恒を師として元服の儀式を執り行い、甲斐武田氏伝来の「楯無の鎧」を着用したと伝えられ、甲斐源氏の名門武田氏の正当なる後継者として死したと言われている。信勝の死により戦国大名としての甲斐武田氏は滅亡したが、甲斐武田氏の嫡流は祖父武田信玄の次男竜芳の子の信道の流れが引き継ぎ、紆余曲折の末に高家武田氏として存続した。
辞世の句は、「あたに見よ たれも嵐のさくら花 咲き散るほとは 春の世の夢」。
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