武田信重
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[編集] 武田信重(甲斐武田氏)
武田 信重(たけだ のぶしげ、1386年(元中3年/至徳3年)-1450年(宝徳2年))は、室町時代中期の守護大名。甲斐武田氏の第14代当主。父は第13代当主・武田信満(信重は長男)。母は小山田弥三郎の娘。武田信長の兄。
通称は武田三郎。1417年、上杉禅秀の乱で父・信満が縁者の上杉氏憲に与して敗戦、自害を余儀なくされた後、剃髪して高野山に入ったため、一命は助けられた。このとき、光増坊道成と号している。
ちなみに武田氏は叔父の武田信元が継いでいたが、無能だったため、甲斐源氏嫡流の座を取り戻そうとし鎌倉公方足利持氏と結び反抗を続ける逸見有直を押さえきれず、また国政を重臣の守護代跡部明海に牛耳られており、上総の武田信長の子伊豆千代丸を養子に迎え、信長の力で跡部氏を排除しようとしたが果たせなかった。
還俗した信重は1440年、結城合戦を契機に復帰し、この合戦で結城持朝を討ち取るなど武功を挙げた。その後、家督を継いで当主となり、将軍足利義教と信濃守護小笠原氏の後援の下で叔父の時代に専横を極めていた跡部明海・景家父子を降参させて甲斐に入国したが、その後も領内経営は安定しなかった。1450年11月に死去し(穴山伊豆守に殺害されたという)、後を子の武田信守が継いだ。
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[編集] 武田信重(安芸武田氏)
安芸武田氏の一族。当主武田信実の従兄弟で安国寺恵瓊の父とされる。
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