武田光和
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武田 光和(たけだ みつかず、文亀3年(1503年)? - 天文4年(1535年)?)は、安芸武田氏当主。武田元繁の嫡子。通称、太郎。別名、光貞。官位は刑部少輔、安芸守。
武田元繁の横死後、その跡を継ぎ安芸武田氏当主となった。武勇に優れた人物であり、父の元繁同様に親尼子の立場を貫き、大内氏や毛利氏と争った。
1524年、大内義興・義隆親子は3万余の大軍を率いて、武田光和の居城佐東銀山城に押し寄せ、包囲した。この事を知った尼子経久は銀山城を救援するため、ただちに安芸に急行。安芸の尼子配下の国人衆にも出動を命令した。尼子軍の救援により銀山城は落ちず、大内軍は退却した。
武田光和は厳島神主家の後継者争いにも介入し、大内氏と対立した友田上野介方を支援するなど、積極的に行動したが、安芸武田氏の衰退を食い止めることはできなかった。所領等を巡り、安芸武田氏歴代の忠臣であった熊谷氏の離反を促したことは、致命的ともいえる痛手であった。
光和は熊谷信直の居城三入高松城を攻めたが、熊谷氏の守りは堅く、撤退せざるを得なくなった。再度熊谷信直の討伐を進めていた矢先に33歳の若さで嫡子を残すことなく急死。安芸武田氏の衰運は決定的となった。
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