武蔵丸光洋
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武蔵丸光洋 | |
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四股名 | 武蔵丸 |
本名 | 武蔵丸光洋 フィヤマル・ペニタニ(米国名) |
生年月日 | 1971年5月2日 |
出身 | アメリカ合衆国ハワイ州 |
身長 | 192cm(現役時) |
体重 | 237kg(現役時) |
所属部屋 | 武蔵川部屋 |
成績 | |
現在の番付 | 引退 |
最高位 | 横綱 |
生涯戦歴 | 779勝294敗115休 |
幕内戦歴 | 706勝267敗115休(73場所) |
優勝 | 幕内優勝12回 十両優勝1回 三段目優勝1回 |
賞 | 殊勲賞1回 敢闘賞1回 技能賞2回 |
データ | |
初土俵 | 平成元年9月場所 |
入幕 | 平成3年11月場所 |
引退 | 平成15年11月場所 |
備考 | |
通算連続勝ち越し記録歴代一位 |
武蔵丸 光洋(むさしまる こうよう、1971年5月2日 - )は、大相撲の力士。第67代横綱。米国ハワイ州オアフ島出身。本名同じ。米国名フィヤマル・ペニタニ(Fiamalu Penitani)。
目次 |
[編集] 来歴
小学生でアメリカンフットボールを始め、相撲との関わりは全くなかった。
- 堅い肉が好き。
- ワイアナエ高校でディフェンスとして活躍し、プロ選手としての活躍を目標としていた。
- 大学からも勧誘されたが、経済的理由で進学を断念した。
- 相撲界入りの勧誘を受け、「大きな体を生かして家計を助けよう」と決心し武蔵川部屋に入門。
- 師匠となる武蔵川(元横綱三重ノ海)は、かつてその素質に目をつけスカウトした武蔵坊にあっという間に逃げられたばかりのため、テスト期間を設けて入門させることにした。
(後に「素質は武蔵丸よりあいつのほうが上だったかもしれない」と言ったらしい)
- 1989年(平成元年)9月初土俵。武蔵丸の四股名は本名のフィヤマルからつけた。
- 1991年(平成3年)11月に新入幕(東前頭12枚目)で11勝4敗で敢闘賞を受賞。大きな体を生かした突き押しと右四つからの寄りが持ち味の相撲。
[編集] 新入幕から横綱昇進まで負け越し知らず
西郷隆盛に良く似た容貌で、日本人に親しまれた(もっとも西郷の写真は一枚も残っておらず、よく知られる肖像画や銅像は後世の画家や彫刻家が親族の顔を参照して想像で作ったため、本当に似ているかどうかは分からない)。さつま武蔵丸の会なる団体が結成されるなど、特に鹿児島県人から愛されたようである。体型も腰高でなく、またアンコの度合いもハワイの先達力士ほどではなかった。こうした条件が重なって、大関昇進に渋い顔をするファンはあまりいなかった。
1994年(平成6年)1月場所後に貴ノ浪貞博と同時に大関に昇進。新入幕同時の貴ノ浪とは対照的な取り口ながら実力は伯仲、大関昇進後も好敵手として長く名勝負を繰り広げた。ちなみに武蔵丸対貴ノ浪の幕内対戦回数58回は大相撲史上1位の記録である(武蔵丸の37勝21敗。史上2位は北の富士対清國の52回)。
同年7月場所では、千秋楽に貴乃花光司を倒して15戦全勝で幕内初優勝。武蔵丸と同じハワイ出身の先輩である高見山大五郎、小錦八十吉、曙太郎も為し得なかった史上初の外国出身力士による全勝優勝を果たす。
横綱昇進も間近と思われたが、左肩関節の負傷の影響により、成績が10勝前後に落ち着いてしまい低迷。その低迷を挽回すべく右差しで腕を返して寄る相撲に変えた。これが功を奏し、これまで分の悪かった貴乃花戦は平成9年以降12勝7敗と勝ち越し、晩年は5連勝して終わっている(優勝決定戦を除く)。
なお武蔵丸は、平成8年まで対貴乃花戦では7勝22敗と大きく負け越しており、特に貴乃花の横綱昇進以降は1勝10敗で全く歯が立たず、その一番は立ち合い変化で勝った相撲だった。又、貴乃花との優勝決定戦では4戦全敗である(1995年1月、1997年9月、2001年1月、2001年5月)。
1996年(平成8年)1月に日本国籍を取得。1999年(平成11年)3月と翌5月に連続優勝して場所後横綱に昇進。同年9月は12勝3敗で横綱として初の優勝を遂げた。そして翌11月も千秋楽に貴乃花を下して12勝3敗で連覇。尚この年は、武蔵丸にとって初めての年間最多勝を受賞した(70勝20敗)。しかし当時は他の横綱が不調または休場していた時期であり、しかも12~13勝レベルの優勝であった為あまり評価されなかった。
2000年(平成12年)1月には左尺骨手根伸筋附着部炎のため、4日目から初の途中休場となってしまった。この頃から故障が目立つようになり、以降左手首の故障に悩まされることになる。又同年5月は、場所直前の稽古中に左膝を捻挫、初めて初日から全休となる。
2001年(平成13年)1月場所と5月場所、貴乃花との優勝決定戦に進出するも、2回とも敗れて優勝を逃している。7月場所からは、貴乃花の長期休場で7場所も一人横綱の時代が続いたが、その間3回優勝しており一応横綱としての面目を保っていた。またこの年、2年ぶり2度目の年間最多勝を受賞している(73勝17敗)。
2002年(平成14年)1月、左手首の故障再発で途中休場。同年9月は千秋楽横綱相星決戦では、長期休場明けの貴乃花を倒して、13勝2敗で12回目の幕内優勝を果たした。しかし皮肉にも、この場所が貴乃花と武蔵丸にとって、15日間皆勤した最後の場所となってしまった。同年11月場所中、武蔵丸は持病の左手首の故障が悪化したため6日目から途中休場した(前日の取り組みは貴ノ浪と対戦し下手投げで敗れていた)。場所後手術を決意し、その後全休と途中休場が続いたが、手術した左手首は結局全快する事は無かった。
2003年(平成15年)1月場所限りで引退した、最大のライバルだった貴乃花の後を追う様に、武蔵丸も同年11月限りでついに現役を引退した。現役最後の相撲となった11月場所7日目の土佐ノ海戦で引っ掛けにあっけなく土俵を割り、武蔵丸が思わず天を仰いだ姿を見せたのは有名である。
2004年(平成16年)10月2日に引退相撲が行なわれ、露払い雅山、太刀持ち武双山を従えて最後の土俵入りを披露した。
引退会見では、高校時代にアメフトで首を痛めており、入門当初から左肩には力が入らなかったという衝撃の事実を明らかにした。親方にすら引退会見のその時まで語ったことのなかった痛みを抱えながら、14年間で通算連続勝ち越し55場所(歴代1位)、外国出身力士最多優勝回数12回(当時、現在は朝青龍が保持)を記録した。
- 現在は年寄武蔵丸として後進の指導に当たっている(武蔵丸は年寄名跡を取得していないため本来は年寄として活動することはできないが、横綱は年寄名跡を取得していなくても5年間は現役時の四股名で年寄として活動できる制度があり、武蔵丸はこれを利用している)。
現役当時の体格は身長192センチ、体重237キログラム。
[編集] エピソード
- 新入幕前の相撲雑誌には、「ハンマーで固めたようながっしりとした体の力士」と記してある。その後の記述には、「曙と一緒にハワイアンコンビとして若貴兄弟(若乃花、貴乃花)の終世のライバルとなるだろう」とある。この通りこの曙や若貴兄弟と4横綱時代を築いた事もあり、新入幕前から大変な期待があったことが伺える。
[編集] 幕内での場所別成績
場所 | 番付 | 勝 | 敗 | 休 | その他 |
---|---|---|---|---|---|
平成3年11月 | 東前頭13枚目 | 11 | 4 | 0 | 新入幕、敢闘賞 |
平成4年1月 | 東前頭3 | 9 | 6 | 0 | - |
平成4年3月 | 西前頭1 | 9 | 6 | 0 | - |
平成4年5月 | 西張出小結 | 8 | 7 | 0 | 新小結 |
平成4年7月 | 東小結 | 11 | 4 | 0 | 技能賞(1回目) |
平成4年9月 | 西関脇 | 10 | 5 | 0 | 新関脇 |
平成4年11月 | 東関脇 | 9 | 6 | 0 | - |
平成5年1月 | 東張出関脇 | 10 | 5 | 0 | - |
平成5年3月 | 東関脇 | 10 | 5 | 0 | - |
平成5年5月 | 東関脇 | 9 | 6 | 0 | - |
平成5年7月 | 西関脇 | 8 | 7 | 0 | - |
平成5年9月 | 西関脇 | 8 | 7 | 0 | - |
平成5年11月 | 西張出関脇 | 13 | 2 | 0 | 優勝同点、殊勲賞 |
平成6年1月 | 東関脇 | 12 | 3 | 0 | 技能賞(2回目) |
平成6年3月 | 西張出大関 | 9 | 6 | 0 | 新大関 |
平成6年5月 | 東張出大関 | 12 | 3 | 0 | - |
平成6年7月 | 西大関 | 15 | 0 | 0 | 優勝(全勝、1回目) |
平成6年9月 | 東大関 | 11 | 4 | 0 | - |
平成6年11月 | 西大関2 | 12 | 3 | 0 | - |
平成7年1月 | 西大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝同点 |
平成7年3月 | 東大関 | 12 | 3 | 0 | - |
平成7年5月 | 東大関 | 12 | 3 | 0 | - |
平成7年7月 | 東大関 | 12 | 3 | 0 | - |
平成7年9月 | 東大関 | 10 | 5 | 0 | - |
平成7年11月 | 東大関 | 10 | 5 | 0 | - |
平成8年1月 | 西大関 | 9 | 6 | 0 | - |
平成8年3月 | 西大関 | 9 | 6 | 0 | - |
平成8年5月 | 東大関2 | 9 | 6 | 0 | - |
平成8年7月 | 東大関2 | 10 | 5 | 0 | - |
平成8年9月 | 東大関2 | 11 | 4 | 0 | - |
平成8年11月 | 西大関 | 11 | 4 | 0 | 優勝(2回目) |
平成9年1月 | 西大関 | 12 | 3 | 0 | - |
平成9年3月 | 西大関 | 12 | 3 | 0 | 優勝同点 |
平成9年5月 | 東大関 | 9 | 6 | 0 | - |
平成9年7月 | 西大関 | 10 | 5 | 0 | - |
平成9年9月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝同点 |
平成9年11月 | 東大関 | 12 | 3 | 0 | - |
平成10年1月 | 西大関 | 12 | 3 | 0 | 優勝(3回目) |
平成10年3月 | 東大関 | 8 | 7 | 0 | - |
平成10年5月 | 西大関 | 10 | 5 | 0 | - |
平成10年7月 | 西大関 | 12 | 3 | 0 | - |
平成10年9月 | 東大関 | 11 | 4 | 0 | - |
平成10年11月 | 東大関 | 11 | 4 | 0 | - |
平成11年1月 | 東大関 | 8 | 7 | 0 | - |
平成11年3月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝(4回目) |
平成11年5月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | 優勝(5回目) |
平成11年7月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | 新横綱 |
平成11年9月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝(6回目) |
平成11年11月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝(7回目) |
平成12年1月 | 東横綱 | 2 | 2 | 11 | 途中休場 |
平成12年3月 | 東横綱2 | 11 | 4 | 0 | - |
平成12年5月 | 東横綱2 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成12年7月 | 東横綱2 | 10 | 5 | 0 | - |
平成12年9月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(8回目) |
平成12年11月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - |
平成13年1月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝同点 |
平成13年3月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | - |
平成13年5月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝同点 |
平成13年7月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | - |
平成13年9月 | 東横綱 | 9 | 6 | 0 | - |
平成13年11月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(9回目) |
平成14年1月 | 東横綱 | 1 | 3 | 11 | 途中休場 |
平成14年3月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(10回目) |
平成14年5月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(11回目) |
平成14年7月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | - |
平成14年9月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(12回目) |
平成14年11月 | 東横綱 | 4 | 2 | 9 | 途中休場 |
平成15年1月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成15年3月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成15年5月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成15年7月 | 西横綱 | 2 | 4 | 9 | 途中休場 |
平成15年9月 | 西横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 |
平成15年11月 | 西横綱 | 3 | 5 | 0 | 引退 |
通算 | 706 | 267 | 115 | - |
[編集] 成績
- 通算成績:779勝294敗115休
- 幕内成績:706勝267敗115休
- 幕内最高優勝:12回
- 幕内在位:73場所
- 横綱在位:27場所
- 大関在位:32場所
- 三賞:殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞2回
- 金星:なし(※平幕時代に横綱と対戦したことがない。横綱初挑戦は関脇時代の対曙戦)
- 通算連続勝ち越し:55場所(史上1位)
- 幕内連続勝ち越し:49場所
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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