貴ノ浪貞博
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貴ノ浪貞博(たかのなみ さだひろ、本名:浪岡 貞博、1971年10月27日 - )は、大相撲の元力士。青森県三沢市淋代出身。最高位は大関。現年寄音羽山。引退時の身長は196.0cm、体重は160.0kg。
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[編集] 現役時代
[編集] 十両昇進まで
中学時代に年寄藤島(のち二子山、元大関貴ノ花)に勧誘され、初めは高校進学を考えていたが両親が貴ノ花を贔屓にしていたため入門が決定、1987年(昭和62年)3月初土俵。最初は本名だったが、後に四股名をつける際に女将(現藤田憲子)の提案で師匠の現役名貴ノ花と本名浪岡を組み合わせて貴ノ浪と命名された。四股名は「さだひろ」だが本名は「ただひろ」と読む(関係者の殆どが「さだひろ」と間違えて呼ぶため、仕方なく現役時代はパスポートなども「さだひろ」に変えてしまったというエピソードがある)[1]。
1991年(平成3年)3月新十両に昇進。しかし大器を期待する師匠からは「遅い」と叱責を受けた。
[編集] 幕内昇進
1991年9月場所では大善と12勝3敗で十両優勝を争い、11月場所、大善、高田川三人衆の一人鬼雷砲、終生のライバルとなる武蔵丸と同期で新入幕。この場所は初日から7連勝し、すわ新入幕初優勝かと話題となった。中日には水戸泉に負けたが翌日琴錦を倒して勝ち越し、残りは全部負けて8勝7敗だったが周囲は驚いた。
[編集] 大関昇進
1993年(平成5年)5月に新小結で10勝5敗、7月に新関脇で9勝6敗、9月に10勝5敗、11月に12勝3敗で、翌1994年(平成6年)1月は大関とりの場所となった。しかし、同部屋に貴ノ花と若ノ花の2大関がいるため、同じく大関とりの武蔵丸よりも好成績が求められた。7日目、それまで1度も勝てなかった横綱曙との対戦で斜めに仕切る(本人いわく「突っ張りの威力をそらす狙いだった」)という奇策に出る。これが効いたのか、河津掛けで曙を倒し、横綱戦初勝利。13勝2敗の成績を残し、場所後、武蔵丸と同時に大関昇進が決まった。
新大関の3月場所では12勝3敗となり、同じく12勝3敗の曙と貴闘力との優勝決定戦に進出、勝てば清國以来となる新大関優勝のチャンスだった。優勝決定巴戦で貴ノ浪は、同部屋の貴闘力には勝ったものの、次の曙には負けてしまい、曙は続けて貴闘力も破ったため、結果、幕内優勝は曙にさらわれた。
その後も、大関としては安定した成績を重ねた。1995年(平成7年)は、5月に大関昇進後初の負け越しを記録するなど低迷したが、1996年(平成8年)1月、14勝1敗で、横綱貴乃花との同部屋決定戦を河津掛けで制して初優勝。1997年(平成9年)11月も、14勝1敗で、再度、貴乃花との同部屋決定戦に上手投げで勝って優勝した。しかし、続く綱とりの場所は、1回目は11勝、2回目は10勝と、綱には届かなかった。
1999年3月場所は、他の横綱・大関が休場し、上位陣は武蔵丸との2大関だけという寂しい展開になった。しかし、両者ともに12勝2敗で、千秋楽結びの一番での決戦となり、惜しくも敗れたものの、場所は盛り上がった。
[編集] 大関陥落
1999年(平成11年)9月場所中に足を痛めて、入幕後から引退までで唯一の休場を経験、11月、角番で負け越して関脇に陥落した。2000年(平成12年)1月場所、千秋楽で10勝に到達し、なんとか大関に復帰した。しかし、3月、5月と2場所連続負け越しで再び関脇に陥落。
大関在位37場所は当時、師匠の二子山(元貴ノ花)らに続いて歴代4位だった。一度陥落した後2場所だけ返り咲いたために、4代目朝潮太郎を1場所だけ上回った。大関として353勝も、歴代3位であるとともに、同時に大関になった武蔵丸と同数だった。
平幕に陥落してからは、「自分にしか取ることの出来ない(スケールの大きい)相撲で観客を沸かせたい」と魅せる相撲に徹し、大関時代にも勝る歓声を得た。 2002年(平成14年)11月には、かつて同時に大関に昇進した横綱武蔵丸に平幕力士として勝ち、大関昇進以前にも取ったことのない、初の金星を獲得した。
2003年は、全6場所で負け越しを喫した。2004年(平成16年)1月、千秋楽でやっと勝ち越したが、これが現役最後の勝ち越しとなる。同年5月場所前には大関時代から悪かった心臓の不調で入院。重篤そのもので相撲を続けられる状態ではなくなってしまい、この場所の初日からの2連敗で遂に引退を表明。年寄音羽山を襲名した。大関から陥落して24場所も相撲を取り続けた。これは小錦と並ぶ記録である。
[編集] 武蔵丸との関係
武蔵丸とは幕内で58回も対戦し(貴ノ浪の21勝37敗)、互いにライバルと認めていた。また、この幕内対戦回数58回は大相撲史上1位の記録である(史上2位は北の富士対清國の52回)。その取り口とライバル関係が似ていたことから、かつての名力士栃赤城と巨砲にもなぞらえられた。
[編集] 取り口や人柄
[編集] 脅威の吸い込み
取り口は、長身で長い手足からなる深い懐と、強い足腰を生かし、相手を引っ張り込むというものであり、他には真似のできないものであった。彼らしい決まり手といえば、極め出しである。しかし、基本を外れた特異な取り口であったため、最初は批判された。師匠も改善を指導したことがあったが、かえって負けがこみ負傷までしたので、無理に改善することはやめた。本人いわく、これは小学生の頃から変わらぬ取り口だという。しかしその性質上、突き押しを得意とする長身の力士が苦手だった。また晩年は足首の負傷にも苦しまされた。この取り口は足腰が弱いと成立しないので、大関時代には相手を引っ張り込み投げ飛ばしたりしたような場面でもあっけなく後退して土俵を割ることが増えた。大関陥落後は復帰を目指すよりもいわゆる「見せる相撲」に徹し、「自分にしかできない相撲をとる」と、全盛時代の特有の取り口を見せることに価値をおいた。
[編集] 特徴的な決まり手
- 河津掛け(特に、大関昇進がかかった横綱曙戦や、初優勝がかかった横綱貴乃花戦など、大一番で決まった)
- 極め出し
- 極め倒し
- 小手投げ
- 外掛け
[編集] 影の広報部長
少なくともマスコミの前では寡黙な力士の多かった二子山部屋勢の中では明るい性格で、現役時もバラエティ番組に出演して笑いをとっていた。
また、土俵上では、取り組み中に落ちたさがりを足で蹴飛ばしたり、土俵の控えにいても、普通は審判員がつける物言いを控え力士の立場からつける(控え力士にもつける権利はある)など、強心臓ぶりを発揮している。昭和後期以降、控え力士が物言いをつけたケースは他に確認できず、平成に入ってからでは唯一のケースである。
自称日本相撲協会のスポークスマン・影の広報部長と称し、自身の取組について勝っても負けても、ユーモアたっぷりにマスコミに回答したり、力士の裏話をマスコミに公表して、マスコミからの人気は高い。
[編集] 引退後
2006年1月末に体調を崩し、心房細動、敗血症、重症肺炎などを併発し緊急入院。一時心停止に陥るほど生命の危機を彷徨ったが、その後回復し3月30日に無事退院した。5月7日からの夏場所で現場復帰。同年9月場所からNHK大相撲中継の解説にも元気に復帰し、影の広報部長ぶりを発揮している。
[編集] エピソード
- ライバル、武蔵丸の引退に際し、当時、現役だった貴ノ浪は、「寂しい」と人目もはばからず号泣した。その人柄をあらわすエピソードである。
- 相撲以外でもNFLに関する知識が深く、スポーツ番組のNFLコーナーにも出演したことがある。
- プロ野球・千葉ロッテマリーンズ、Jリーグ浦和レッドダイヤモンズのファンを公言している。
- ダーツの腕前はかなりなもので、現役時代、場所中でもダーツの練習を欠かすことは稀であったとか。角界で琴欧洲とダーツを競えるのは貴ノ浪(音羽山親方)だけとの声も。
- プレイステーションを始めとするテレビゲームにも造詣が深い。
- 尊敬する力士は琴富士(現・タレント)であったが、その理由は、ギャグとカラオケのレパートリーが多いからだとのこと。なお、琴富士の事を師匠とまで呼んでいた。
[編集] 生涯成績
- 通算成績:777勝559敗13休(104場所)
- 幕内成績:647勝473敗8休(76場所)
- 幕内最高優勝:2回
- 大関在位:37場所
- 三賞:敢闘賞3回
- 金星:2個(武蔵丸)