三重ノ海剛司
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三重ノ海 剛司 | |
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四股名 | 三重ノ海 剛司 |
本名 | 石山 五郎 |
生年月日 | 1948年2月4日 |
出身 | 三重県松阪市 |
身長 | 181cm(現役時) |
体重 | 135kg(現役時) |
所属部屋 | 出羽海部屋 |
成績 | |
現在の番付 | 引退 |
最高位 | 横綱 |
生涯戦歴 | 695勝525敗1分56休 |
幕内戦歴 | 543勝413敗1分51休(68場所) |
優勝 | 幕内優勝3回 |
賞 | 殊勲賞5回 敢闘賞1回 技能賞3回 |
データ | |
初土俵 | 昭和38年7月月場所 |
入幕 | 昭和44年9月場所 |
引退 | 昭和55年11月場所 |
備考 | |
金星5個(輪島2、北の湖1、琴櫻1、北の富士1) |
三重ノ海 剛司(みえのうみ つよし、1948年2月4日 - )は、大相撲の力士である。第57代横綱。本名、石山五郎。三重県松阪市出身。出羽海部屋所属。血液型A。身長181cm、体重135kg。
現役引退後は年寄・武蔵川として、部屋を運営する傍ら、日本相撲協会の役員待遇、監事を経て理事に就任。2006年2月より事業部長の要職に就いている。
目次 |
[編集] 経歴
- 1963年7月:初土俵。
- 1969年3月:十両に昇進。
- 1969年9月:新入幕。
- 1970年7月:小結に昇進。2横綱(大鵬・玉の海)を破り、8勝7敗と勝ち越して初の三賞(殊勲賞)を受賞。
- 1970年9月:関脇に昇進。
- 1975年11月:初優勝。
- 1976年1月:大関に昇進。
- 1976年5月:2場所連続負け越して、大関から陥落するが、翌場所関脇で10勝をあげ、大関に復帰する。
- 1979年9月:横綱に昇進。昇進2,3場所目に連続優勝を果たすがその後は怪我・病気などで休場が多く、15日皆勤したのは4場所のみであった。
- 1980年11月:引退。
[編集] 成績
- 通算成績:695勝525敗1分56休
- 幕内成績:543勝413敗1分51休
- 幕内最高優勝:3回
- 幕内在位:68場所
- 三賞:殊勲賞5回、技能賞3回、敢闘賞1回
- 金星:5個(輪島2、北の湖1、琴櫻1、北の富士1)
[編集] エピソード
- 戦後の横綱の中で大関時代の勝率は最も低い(59.5%)。
- 1972年前半には長谷川・貴ノ花・輪島・魁傑らとともに大関候補といわれたが、その頃から肝臓が悪化、一時期幕内中位で低迷した。一旦回復して大関の座をつかんだものの、再び症状が悪化して転落。翌場所で10勝を挙げて復帰したが、しばらくは二ケタ勝利すら挙げられずに苦しい土俵が続いた。大関時代の勝率が低いのはそのためである。
- それでも症状が改善した1978年ごろから本来の力を出し始め、1979年春から10勝、13勝と挙げて7月場所で14勝の優勝同点。ワンチャンスで最高位をつかんだ。
- 昇進にあたって師匠の元武蔵川(出羽ノ花)から「一簣功」(いっきのこう)という言葉を贈られた。「九仞の功一簣に欠く」という故語からの引用で、「苦労の末に晩年に横綱になったが、これで安心せずもう一花さかせてみせよ」という想いがこめられたものだった。三重ノ海はこの言葉に奮起して1979年11月場所と翌1980年1月場所に連続優勝を果たし、特に1月場所は初の全勝優勝だった。彼の三揃えの化粧廻しにはこの「一簣功」の三文字をあしらったものがあった。
- 前褌を引いての速攻が得意。ときには張り差しを見せることもあった。前捌きが非常にうまく、馬力が強いわけでもないのに速い相撲で勝つことから「妖気のただよう」土俵ともいわれた。
- 平幕時代、全盛期の横綱北の湖に対し奇策猫騙しを敢行したことがある。ただし失敗に終わり敗戦。
- 引退当時の出羽一門にはまだ分家を許さない不文律があったが、三重ノ海については独立を許され、一門内で部屋を立ち上げることができた。出羽海部屋への思いは非常に強かったようで、新築された武蔵川部屋は間取りから内装まで出羽海部屋とそっくりであったという。指導者としては横綱武蔵丸のほか武双山・出島・雅山の三大関を送り出した。外国人力士に元学生横綱と、たたき上げの日本人力士でなかった点でいま一つ評価が低いが、一時期は角界最多数の関取を擁し一時代を築いた。
[編集] 関連項目
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