毛利治親
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毛利 治親(もうり はるちか、宝暦4年6月15日(1754年8月3日) - 寛政3年6月12日(1791年7月12日))は、長州藩の第9代藩主。父は第8代藩主・毛利重就(治親は四男)。母は立花貞俶の娘・登代子(瑞泰院)。正室は田安宗武の娘・節子。側室に小泉氏(明善院)、岡田氏(宝池院)。子に斉房、斉熙、細川興昶、水野忠篤、娘(有馬頼瑞婚約者)。官位は従四位下、侍従。
宝暦4年(1754年)6月15日、江戸で生まれる。幼名は岩之允。四男だったが、兄たちが相次いで早世したため、世子となる。明和5年(1768年)3月に元服して従五位下、壱岐守に叙任する。後に従四位下に叙任し、将軍の徳川家治から一字をもらって治親と名乗った。天明2年(1782年)8月28日、父の隠居により後を継ぐが、寛政元年(1789年)に父が死去するまでは実権は全く無く、また父の死からわずか2年後の1791年6月12日に江戸で死去したため、治績などはほとんど無い影の薄い藩主であった。享年38。後を長男の毛利斉房が継いだ。
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