浅野長照
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浅野 長照 (あさの ながてる、慶安5年1月17日(1652年2月26日) - 宝永2年11月15日(1705年12月30日))は、江戸時代中期の外様大名。第2代備後国三次藩主(5万石)。通称は長蔵(ながぞう)、官位は従五位下・式部少輔(しきぶしょうゆう)。
[編集] 経歴
慶安5年(1652年)、安芸国広島藩主浅野安芸守光晟(42万石)の三男として誕生(長男は浅野綱晟・次男は浅野長尚)。母は前田肥前守利常の娘・満姫。寛文3年(1663年)9月1日、将軍徳川家綱にはじめて拝謁。寛文6年(1666年)12月28日、従五位下式部少輔に叙任。
このあと、備後国三次藩主浅野長治の養子に入った。実ははじめ次兄の浅野長尚が浅野長治の養子に入っていたのだが、寛文6年(1666年)7月に長治に先立って死去したため、新しい養子にこの長照が選ばれたのである。延宝3年(1675年)正月に養父長治の死去にともない、3月23日に家督を相続した。延宝4年(1676年)4月11日にはじめて領地三次に入る。天和元年(1681年)6月25日には越後国高田藩主松平越後守光長の家臣本多八大夫を預かった。子ができなかったため、天和2年(1682年)8月6日、長兄浅野綱晟の次男浅野長澄を養子に迎えた。元禄4年(1691年)12月2日に隠居して長澄に家督を譲った。
なお播磨国赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室阿久里は、浅野長照の養父長治の姫であり、かつ長照の養女であるので、浅野長矩は長照の娘婿に当たることになる。そのため元禄14年(1701年)3月15日には浅野長矩の刃傷事件に連座して隠居の長照にも遠慮(江戸城登城禁止)処分が下された。宝永2年(1705年)11月15日に死去。享年54。貝塚の青松寺に葬られた。法名は壁龍禪梭騰雲院。室は公家の広幡忠幸(大納言)の姫。
[編集] 関連項目
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