浅野長治
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浅野 長治(あさの ながはる、1614年(慶長19年) - 1675年(延宝3年))は、1632年(寛永9年)広島藩の支藩として立藩した三次藩五万石の初代当主。忠臣蔵で有名な赤穂藩主浅野内匠頭長矩の正室阿久里姫の父親としても知られる。通称は又六郎(またろくろう)。官位は従五位下・因幡守(いなばのかみ)。
慶長19年(1614年)に広島藩初代藩主浅野長晟の庶長子として山城国に生まれる。元和5年(1619年)にはじめて将軍徳川秀忠に拝謁。寛永7年に従五位下因幡守に叙任した。浅野本家の長男ながら側室の子であった長治は、浅野本家を継ぐことは許されなかった。浅野本家の家督を継いだのは正室の子である異母弟浅野光晟であった。
寛永9年(1632年)11月2日に父の遺領のうち備後国三次郡と恵蘇郡に5万石を分けられて、ここに三次藩を立藩し、その初代藩主となる。11月6日に領地三次に入った。その後、三次藩の基礎を築き、名君として三次の歴史に名を残した。男子がなかったため、明暦3年に本家の浅野光晟の次男浅野長尚を養子に迎え入れたが、まもなく死去したため、三男浅野長照を新たに養子に迎えて家督を継がせた。延宝3年(1675年)1月19日に死去。墓所は広島県三次市にある鳳源寺のある比熊山城跡山麓。法名は俊岳了英鳳源院。正室は笠間藩主浅野采女正長重(浅野長矩の曽祖父)の姫。
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